⑤政府から勝ち取った明治の記憶 ~明治産業革命世界遺産登録後~【後編】 加藤康子×深田萌絵
(深田)
自由な言論から学び行動できる人を生み出す政経プラットフォームITビジネス アナリストの深田萌絵がお送りします。今回は元内閣官房参与の加藤康子さんにお越し頂きました。どうぞよろしくお願いします。
今回は、「ユネスコの産業遺産登録まで全部で16年間の道のり」のピークですよね。何度も挫折を経験された中でのついにクライマックスを迎えましたね。規制に挑戦し、「山本作兵衛」が記憶遺産になるのか?まで来ました。
(加藤)
はい。本当にいろいろありました。挑戦をしても失敗する可能性の方が確率が高いのです。その時に皆さんにお伝えしたのは、例え成功の可能性が数%しかなかったとしても、「挑戦しないで後悔するよりも、失敗して後悔したほうが良い」と考えで挑戦しました。その時に市民の皆さんの熱い思いが有りましたが、本当の事を言いますと降りるに降りれなくなったのです。
ただ、文化庁に相談してもダメ、福岡県に相談してもダメでした。その時、英文マニュアルを読んでいて気づいたんです。「記憶遺産は必ずしも国から出さなくても良い」と書かれていて、「個人から出しても良い。他の国から出しても良い。」との事でした。そこで私は日本からではなく、「オーストラリアから出す!」という方法を思いつきました。
(深田)
なぜオーストラリアだったのですか?
(加藤)
当時、オーストラリアのピアソン先生という方がいらっしゃいました。その先生は記憶遺産の推薦書を作成した経験を持っていて、記憶遺産の推薦書では1ページ目に強いメッセージを込めることが何よりも重要だと教えてくれました。全部を出し人々の心を掴むのがカギでやはり、経験者は専門家ではなくてもポイントが解っているので助けを借りる必要があると感じたのです。
(深田)
どの様に描かれたのですか?
(加藤)
まずは、記憶遺産の解説が必要でした。翻訳をせねばならなかったのですが、推薦書をまとめる為に一番困ったのは田川の方言で、いわゆる「田川弁」がとても難しく炭鉱の言葉も全く分かりませんでした。昔の装備や作業の仕方を詳しく色々と書いてあるのですが、田川石炭博物館の安蘇龍生館長と言う立派な方がいらっしゃって毎日電話をして、「これどういう意味ですか?」と尋ねながら翻訳を進めました。その上で、日本語から英語に翻訳するという作業が本当に大変でしたね。
(深田)
田川弁は解りませんよね。山本作兵衛さんの作品は何点くらいあったのですか?
(加藤)
推薦書を見ないと解りませんが、途轍もない量でした。作兵衛さんは、色々な人の話を聞きながらとても事細かく絵画と記録を残したのです。全てを英文に翻訳して3カ月で準備をして締め切りの3月31日にギリギリ推薦書を提出しました。
(深田)
解らない田川弁を日本語にしながら英語にするのは途轍もない作業ですね。
(加藤)
そうですね。でも、地元の方達の暖かい協力があってこその推薦書を出す事ができたのです。そして、それが日本から一度も出た事の無い記憶遺産の第1号となりました。
(深田)
第1号が「山本作兵衛」さんですね。
(加藤)
その時に正直に言うと、「これは揉めるかもしれない」と思いました。最終審査で揉めた場合、揉めたものは普通は日本政府に返されます。その為日本政府に返されるとOUTになるかもしれない。何故なら日本の政府を通さず行いメンツを潰してしまっているのです。なので、当時のアジア太平洋地区の委員長がオーストラリアだったため、「そちらに返してほしい」とだけ約束を取り付けました。
(深田)
スゴイですね。とにかく日本政府を避けたのですね。
(加藤)
そうですね。皆さんも出来ないと思っていました。私も自信があったわけではありません。しかし、日本の明治産業遺産を出していく中で海外の専門家の皆さんは、日本の産業化のプロセスに興味を持っているのを肌で感じてもいました。日本の近代化のプロセスには謎が多いと100人が100人おっしゃっていました。
近代化の記録は、江戸時代ばかりで「明治以降・大正・昭和」の色々な記録は現代の日本においてもあまり語られていません。少しでも、残っていれば皆さんの関心を呼ぶと内心思っていた所に内定が出ました。
(深田)
内定が出たのですね。
(加藤)
私は、その内定をどの様に説明するかと凄く悩みました。何故なら私の所にオーストラリアからの内定が届いていますが日本政府は、分かっていなかった。私はしばらく考えて地元の方にも黙っていましたし、もしもダメならまた大変な騒ぎになる。私は、こっそり内閣官房の和泉局長と平野先生に実は、「山本作兵衛の世界の記憶第1号の内定が出ているんですよ」とポロっと言ったのです。
そうしたら和泉さんが、ビックリして「君ね!良い事をしたと思っているかもしれないけど日本政府を舐めちゃいけないよ!何でもかんでも勝手にやっても世界遺産はそうは行かないから!」と言われましたが、その翌日はメールが来て「内閣官房の中に世界遺産室作ったから。」と、世界遺産登録のための体制を作って頂きました。
(深田)
暴走していると思われたのですね。
(加藤)
このまま行ってしまうと何でもやってしまうと心配になったみたいですね。世界遺産室を作るのは、とても簡単に思うかもしれませんが所管を変えるのは、和泉さんの役人人生38年間の中で初めてだったのです。
(深田)
それこそ革命ですよね。
(加藤)
その後に本格的に世界遺産が動くことになるのです。
(深田)
登録がされたのは何年の事ですか?
(加藤)
2015年にドイツのボンで開催された世界遺産委員会でお披露目をしました。各自治体で「万歳!」と喜んでいただけましたし、長崎県長崎市も全会一致で反対していましたが、登録が決まると一番最初に商店街に横断幕を掲げて皆さんで「万歳!」と喜んでくれました。
(深田)
最初は反対していた人たちが最後には喜んでくれるなんて、嬉しいですね。
(加藤)
そうですね。私は、失敗しても完璧な形で成功しなくても前に進むことが一番大事だと思います。
(深田)
そうですね。日本の明治産業革命遺産の登録するまでのストーリーそのものが革命だった!と言う事で、ありとあらゆる反対を乗り越え最後には反対していた方達と万歳!までこぎつけた加藤先生のバイタリティを学ばさせて頂きました。
16年と長い時間は掛かりましたが、皆さんも情熱を傾けて時間は掛かるかもしれませんが、やりたい事をやり遂げ、ありとあらゆる障害を突破すれば達成できると言うお手本になると思います。加藤先生今回もとても貴重なお話をありがとうございました。