④ 政府から勝ち取った明治の記憶 ~明治産業革命世界遺産登録後~【後編】 加藤康子×深田萌絵
(深田)
自由な言論から学び行動できる人を生み出す政経プラットフォームITビジネス アナリストの深田萌絵がお送りします。今回は元内閣官房参与の加藤康子さんにお越し頂きました。どうぞよろしくお願いします。
(加藤)
よろしくお願いします。
(深田)
前回は、ユネスコの産業遺産登録までの道のりについてお話しいただきましたが、非常に盛り上がりましたね。今回のテーマは、さらに一歩進んで「規制改革に挑戦」という内容です。文化庁では通らないユネスコの遺産登録を全く政府と関係のない民間人で、しかも規制改革までおこなうとはとてもスゴイですね。
(加藤)
そんな事ありません。当時は民主党政権下で、蓮舫さんが規制改革に力を入れていました。元々は、第一次安倍政権の時代に経産省でおこなおうとしていたのです。当時の経産省に上の方から指示が降りて来たのだと思いますが、結果的に難しいとの事で近代化遺産という「ふわっと」した枠組みで、暫定リスト入りは果たしました。ところが、文化庁からは「江戸だけにしてくれ」と言われ「明治を落としてくれ」との要請がありました。
(深田)
えっ!明治の産業遺産ですよね?
(加藤)
当時の文化庁に言われたのは、「教科書問題になる」という懸念があったようです。文化庁の考えでは、明治期の近代化の価値について、国内外でまだ意見が一致しておらず、議論の余地が多いという状況でした。私としては、「江戸だけにしてくれ」と言う事に納得がいきませんでした。
何故かと言えば私の構想として、「どの様に幕末から明治にかけて日本が近代化したのか」と言う事です。工業立国の土台を作った道程に価値がある事を彼らは理解をしていないのです。
それに対して、日本の先生方は江戸時代の物作り文化は安定した評価があり、そちらに重点を置くべきだという意見が強かったのです。なので日本の先生方は最後に整理をして落とそうと思ったのでしょうね。
(深田)
その時、落とそうとしていた雰囲気を察したのですか?
(加藤)
はい。しかし、海外の専門家たちには解っていました。なぜなら「明治時代における産業日本の勃興こそが奇跡」だからです。幕末から明治にかけた時に江戸時代だけでは面白くなく国際舞台に踊り出て開花する事の方がスゴイと言う事を見せたいと皆が思っていたのです。
しかし、国内では文化庁を含め、江戸時代の方が価値があるという意見が多く、明治を含めることには消極的でした。私が、規制改革に挑戦したのは、このままでは産業遺産登録は落とされると思ったのです。
(深田)
民間人が、規制改革をしようとする度胸がスゴイですね。
(加藤)
たまたま経済産業省の友人がいて、その官僚の友人が「規制改革でやってみようか」と背中を押してくれたのです。私自身、まさか友人が規制改革のリストにこの案件を載せてくれるとは思いませんでした。それをきっかけに、実際の戦いが始まり規制改革が行けそうだとなったのです。
蓮舫さんが、北九州に入り盛り上がりましたが、その時感じたのが、規制改革をしただけでは無理だろう。文化庁が推薦権を握っている限り、我々が推薦しても一生推薦してもらえないだろうと思いました。そこで、別の仕組みを作らなければならないと思い文化庁以外に出口戦略を見つける必要があると判断しました。
(深田)
推薦権の基準が文化庁ですからね。
(加藤)
文化庁が圧倒的な権限を持っていますからね。どうしようかと考え国交省の偉い先輩やその様な方達と色々と相談し、「内閣官房の和泉洋人さんの力を借りるしかない」というものでした。当時、和泉さんは内閣官房の事務局長でしたのでお願いに伺いました。和泉さんも最初はかなり懐疑的でややこしい話を持って来たなと思っていたでしょうし、出来るとは思っていなかったと思います。
しかし、最終的には和泉さんの所で室を作っていただけました。和泉さんは、実行力のある人でまさしく「天の時・地の利・人の和」で、やるとなれば資料を持ち主に民主党の国会議員の先生方に何度も説明を重ねることで協力を得ることができました。規制改革をした時点から企業側もその時点では同意はしていませんでしたが少し理解をしていただけるようになりました。
私が最初に日本製鉄の今井さんに説明に行った時には、「うちが産業遺産になったら終わりだ」と言われました。そして三菱重工の総務部長に何度も交渉をしに行っても「うちはまだ棺桶に入っていないぞ」とちゃぶ台をひっくり返されるくらいの勢いで怒られましたが、諦めずに面会を拒絶されながらも門を叩き続けました。
何回も、現場に行かせていただきました。現場で働いている皆さんの心の中では、産業遺産になったら良いなと思っていたのでしょう。陰ながら皆さんが応援してくれるのを肌で感じてもいました。色々な所で応援をしていただきましたが、圧倒的だったのは筑豊でした。
(深田)
特に地元の支持が大きかったのは炭鉱の町の筑豊だったのですか?
(加藤)
そうなんです。炭鉱の街である筑豊では、2000人規模の集会が何度も開かれ、地元の人たちが熱い思いを持って「うちを世界遺産にしてくれ」と声を上げてくれました。特に熱烈な支持がありましたね。
(深田)
それほどの支援があったのですね。
(加藤)
ところが残念なことに、世界遺産の審査で六ヶ国の委員の先生方が実地調査を行った際、大牟田は三池炭鉱の施設や鉄道の線路敷、積み出し港までが綺麗に残っているのに対して、筑豊は規模が大きすぎる上に、田川の二本煙突や飯塚の旧伊藤伝右衛門邸といった素晴らしいものが点在しているだけで、線としてのつながりや面としての広がりが不十分だと判断されてしまいました。産業遺産の場合、ある程度機能が完結していなければならないのです。
そうでないと厳しい。最終的には東京プリンスホテルで結果を発表する場があったのですが、そこにも筑豊の東京田川会から多くの市民の方々が集まっていました。その結果、筑豊が対象から外れることを発表しなければならず、私は本当に胸が痛みました。翌日すぐに田川へお詫びに行き、「申し訳ありません」とお伝えしました。
「こういう理由で世界遺産の構成資産には筑豊を残すことができませんでした」と。ただ、その場で「筑豊には素晴らしい遺産がある」とお話ししました。それが山本作兵衛さんの記録の「炭鉱の日誌と絵」です。私はこれまで世界中の炭鉱博物館を訪れてきましたが、あれほどのものを見たことがありません。
(深田)
山本作兵衛さんの日記が、「ユネスコの世界の記憶遺産になるかもしれない」と言う事ですね。
(加藤)
その時、多くの方々は「世界の記憶って何だ?」と疑問を持ち、怒りも感じていました。「なんでうちは世界遺産に一番応援したのに落とすのだ」と、また騙されるのかと言われました。当然ですよね。それでも私は、「世界の記憶遺産」は、ユネスコの三大事業の一つで、まだ日本から出ていないと説明しました。
それは不動産ではなく、ドキュメントや文章という大切な歴史的にも残さなければならない記憶だと説明しました。例えばゲーテの日記、アンネ・フランクの日記、交響曲第9番(ベートーヴェン)、マグナ・カルタ(大憲章)といったものだと言いました。そして、「可能性があるのか?」と尋ねられたので、「可能性が全くないわけではないが、挑戦してみる価値がある」とお伝えしました。
でも内心では、可能性は数%程度だろうと考えていました。しかし、その価値は確かにあると信じていました。住民の方達は、最初は釈然としない様子で「もう一度来て説明してくれ」と言われました。
それで、さらに多くの人々が集まる中で説明を繰り返しましたのですが、皆さんの目つきが違いました。特に、12月に行った説明会では、多くの方々が本気になり、「退職金を出すからやってほしい」と言う方まで出てきました。
(深田)
皆さんも本気になっているのですね。
(加藤)
その時、私は「これは田川にとって最後のチャンスかもしれない」と思いました。でもそう言ったら、ある女性の方に「最後のチャンスなんて言葉を使わないで!」と怒られました。それでも本当にそう感じていたのです。何故かと言えば文化庁にも相談したところ、「こんなものが文化財になるわけがない」と言われました。
(深田)
そもそも、日本人にとっても山本作兵衛は誰ですか?って話ですよね。
(加藤)
福岡県に至っては、「そもそも福岡県の文化財にすらなっていない」と指摘されました。私は、絵がスゴイのではなく「明治後半、大正、昭和」がほとんどですが、炭鉱での色々な生活や職場の変化などが良い事も悪い事も含めてありのままで残っているので私は、これが世界の記憶遺産にふさわしい価値を持つと確信していました。そこで、まだ世界の記憶遺産の委員会が文化庁で発足する前に私はこれが「ワンチャンス」だと思いました。
(深田)
めちゃくちゃですね。
(加藤)
それが12月で、翌年3月末までに何とかしなければならない状況でしたし、皆さんが最後に盛り上がってしまい私は、引くに引けなくなると思いましたし、伊藤知事からは皆さんが心配しているよ。ダメだったら大変な事になるよと言われました。
(深田)
この続きは、次回のお話として伺いたいと思います。本日はありがとうございました。