目から鱗 日本人の給料が安すぎる本当の理由 雇用ジャーナリスト・海老原嗣生×深田萌絵

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【目次】

  • 00:00 1. オープニング
  • 00:40 2. 新しい知識・スキルを学ぶリスキング
  • 03:19 3. リスキングの予算は無駄
  • 06:23 4. 歳をとって給料が上がるのは日本だけ
  • 10:20 5. 年功昇給が昇給幻想を生んだ
  • 14:26 6. 非正規が増えたから平均賃金が下がった
  • 17:51 7. 若い人と独身女性に絞って施策をすべき
  • 21:54 8. 日本の企業労働組合と欧州の企業横断組合
  • 25:46 9. 企業余りと人手不足は良いサイクル
  • 28:35 10. やがて非正規の給料が上がり物価が上がる

(深田)

皆さんこんにちは、ITビジネスアナリストの深田萌絵です。今回は雇用ジャーナリストで、大正大学招聘教授の海老原嗣生(つぐお)先生にお越しいただきました。先生、前回に続いてまだまだよろしくお願いします。

(海老原)

今回は労働市場のお話をする予定ですが、前回「リスキリング」の話題が盛り上がったので、先にその説明をちゃんとしておきましょうか。

(深田)

そうですね、「リスキリング」という言葉は今キーワードとして結構メディアに出てきていますが、最初はどういう意味かと思っていました。要するにリ・スキリング(Re-Skilling)「勉強し直し、スキルを上げて転職しましょう」という話ですか。

(海老原)

そういう事です。でもこんな施策はね、リクルートで転職エージェントの企画を何年もやってきた私や、人材バンクの人はみんな笑っていますよ。人材協(日本人材紹介事業協会)という業界と政府の協議会では、みんな困っていると言っています。

(深田)

何に困っているのでしょうか。

(海老原)

これ、無理な話ですから。例えば欧州の場合、確かにドイツやフランスには「継続的学習」と言ってマイスターなどの技能資格を得る制度があります。でもこれは、あくまで今自分がやっている仕事でキャリア・アップする為なのです。元々は製造業の徒弟制から生まれた資格ですが、今ではホワイトカラーの高学歴エリートも取得しています。しかし、低賃金だった人が這い上がってこられる仕組みではないのです。

(深田)

低賃金の人たちは関係ないのですか。

(海老原)

関係ありません。欧州ではもう一つ、衰退産業で行き場のなくなった労働者を再教育して他の産業に移す施策も盛んですが、これはエントリーレベル、年収400~500万の人が対象です。年収800~1000万も貰っていた人が失職して再教育を受けたところで、同レベルの待遇で転職できる国などはどこにもありません。そんな事はまず無理なのです。

欧米が積極的な労働政策を取らない理由も、そんな施策がうまくいかないからです。一つの仕事を極めてスペシャリストになっていく為の学習機会は、米国では少ないけれども、欧州には確かに低年収用・高年収用それぞれの教育があります。ただ「知らない仕事に移ってもう一回働く」ケース、例えば半導体工場に勤めていて解雇された人がテレビの工場で働くにはどうするか、といった他業種に移るケースはエントリーレベル、給与が安い人だけの話なのです。年収800~1000万もあった人が再勉強して(高待遇のまま)他の業界に転職するなど、出来やしないですから。

(深田)

そうですよね、熟練度が足りません。

(海老原)

そう、どこの世界でもスペシャリティが必要ですから、職業訓練所で勉強した程度の未経験者を高年収で雇うわけがない。うまく行くわけがありません。

(深田)

なるほど、そういう事なのですね。

(海老原)

リスキリングにはもう一つ背景があって、日本は鉄鋼・石炭・造船などの産業が衰退した1950~60年代の大失業時代に、国中心の施策で失業者を他の産業にうまく移せたという「成功体験」があるのです。だからいつでも他の業種に動かせると思い込んでしまっている、だからずっとやり続けているのです。けれども諸外国ではうまくいっていないし、お上の力で労働者を再配分するなどという発想もないから国費も投資しません。

そもそも、転職とはどうやって起るのかというメカニズムから考え直してみましょう。ひとつの成長産業で人材需要が起こると、いま説明したように全くの異業種からは無理なので、成長産業の周辺から労働者を集めます。すると周辺の産業も人手不足になって、さらにその周辺へと人材需要が波及していく。この「アメーバ状の求人連鎖」こそが転職のメカニズムです。なのに、全く異なる衰退産業の未経験者をリスキリングさせて高年収のまま成長産業に移すなど、出来るはずがないわけです。

(深田)

確かにそれは無理ですね。

(海老原)

このリスキリングは経済財政諮問会議で下りてきたけれど、経済財政諮問会議には雇用の専門家など一人も居ませんよ。居るのは経済学者と、経団連など経済界のお偉い面々、あとは証券アナリストの中空さんですか、私は「中カラさん」と呼んでいますが、その程度の顔ぶれなのです。

(深田)

つまり、一般社会で働いた事がない、普通の仕事をされた事がない「お偉い方々」が集まってあれこれ議論されていると。

(海老原)

しかも雇用についてはみんな素人ですよ、ひどい話です。それで私が文句を言ったら労働政策審議会の委員をクビになってしまいました、あんまり文句言い過ぎて(苦笑)。

(深田)

そういう、お役所や政府から敬遠された方々が、この番組には集まって来られていますので、海老原先生もふさわしい人材かと(笑)。

(海老原)

そういえばあの人もこの人も、みんなそうだ(笑)。

(深田)

結局、リスキリングは絶対うまくいかない、だからそこに予算を割いても無駄だという事ですね。

(海老原)

無駄です。人材系の人たちは皆「知能程度を疑う施策だ」と言っています。でも、さらにひどいのは「キャリア・カウンセラーを各企業に一人ずつ置く事にしろ」とか言って、その為にスゴイ予算が出ている事ですよ!

(深田)

キャリア・カウンセラーなど、役に立つのですか?

(海老原)

立つわけがないでしょう! 優秀な人も一部はいるけれど、ほとんどのキャリア・カウンセラーは自分自身が社会不適合で働くのが嫌で「なにか資格をとってカウンセラーになりたいな」という人ばかりですから(笑)。

(深田)

それはメンヘラ(精神的健康に問題がある人)が心理カウンセラーになるようなものですよね、自分がメンヘラだから他人のメンヘラも分る、みたいな(笑)

(海老原)

この話は今度お酒呑みながらしましょう、危険発言が多くなりそうで言い訳がほしい(笑)。

(深田)

そうですね、酔った上の失言でしたと言えるよう、次からはお酒も用意しましょうか(笑)。ではここから本題の、日本が賃安となった理由についてお願いします。

(海老原)

はい、まずは雇用の世界以外の人は知らない「常識」からお話ししていきましょう。それは「欧米の中間的水準の労働者は、何十年働いても給与がほとんど上がらない」という事です。唯一エリート層、フランスではカードル(Cadre=管理職コース)といいますが、この一部の人々だけが20代後半から60代までの間に年収が約8割アップします。ところが中間層では同じ期間でおよそ3割、日本円換算で500万円弱だった年収が精々600万円になる程度で、一生上がらない仕組みになっているのです。

(深田)

ヨーロッパでは給与がそんなに上がらないのですね。

(海老原)

いやいや、どこの国でも上がらないのです。逆に日本の方が特殊で、大卒で就職した人達の平均年収が今の景気でさえ定年までに2.4~2.5倍も上がっていて、こんな幸せな国はないのです。欧米での給与は(エリート以外)ほぼ横這いで、とくに製造工とか事務職など中間職未満の人々は20代から60才までで1割しかアップしないし、大卒でもやっと2割強です。

(深田)

低賃金労働の実態、なんとなく分ります。私が最初に就職した会社では手取りが12万円台でしたが、経理課にいた30代くらいの先輩でも20万弱だったので「この国は給料が全然上がらないのだな」と思った経験があります。

(海老原)

欧州での話に戻しますと、向うには「職業資格」という制度があって、大学で取った資格によって就ける職種が決まってしまい、その資格の仕事しかできません。転職したいと思っても、上も下も、それこそ横にも行けません。

(深田)

え、上も下も、横すらもないのですか!?

(海老原)

隣の職種に行きたかったら職業訓練校で新たにその資格を取ってこないと、隣にさえ移れません。欧米はこういう閉塞的な社会なのだという事すら、日本の多くの方はご存知ないのです。

(深田)

はい、知りませんでした。

(海老原)

端的に言って、給与が上がるのはエリートだけです。

(深田)

現実を見るのは悲しいですね。これは日本も同じような状態なのですか。

(海老原)

いや、日本は全然違います。男性フルタイマーの場合で日米の賃金状況を見てみましょう。日米ともに高所得層から最底辺までかなりの開きがありますが、それぞれの中央値で比較します。アメリカの場合、30才台(25~34才)からの10年間で約3割所得が増えますが、そこからはほぼ横這いで増えません。日本の場合だと10年間で4割、20年間では8割もアップします。ただし上がり過ぎた分は定年の時点でリセットされ、雇用延長期間は元に戻される形です。所得階層の高位でも底辺でも、米国はある時期から横這い、日本は上がって下がる傾向はそれぞれ同じです。

(深田)

なるほど、上がり過ぎて、今度は下がる。

(海老原)

この分析では30才台を起点にしましたが、22才の初任給を起点にしたら、日本は現在の経済状況でも定年前でいまだに2倍半まで上がっています。こんな幸せな国、じつは日本だけだという事に気付いてほしいのです。

(深田)

初任給を1としたら2.5まで上っているのですね、日本は。

(海老原)

そう、これが日本の給与体系の特徴です。日本の大卒正社員の場合で見てみましょう。大企業・中小・零細間の給与格差は確かに大きいですが、それぞれの階層なりに年功昇給は着実に増え、定年を迎える頃には零細企業でさえ年収が約550万に、大企業だったら1000万超になっています。つまり、大卒正社員であれば日本はどの企業規模であろうと欧州のカードルゾーン、エリート層の年収レベルに到達しているのです。長く勤めてさえいれば、誰もが欧州のエリートレベルの年収が得られるほど給与が上がり続ける、そういう仕組みの国で私達は生き、働いているという事に気付いてほしいのです。

これは高卒の正社員でも同じで、大企業なら定年までに年収800万まで、零細企業でも400万くらいまで上がりますから、上は悠々カードルゾーンだし、下でも欧州の中間職クラスには入っている事になります。

そのかわり、非正規雇用になってしまうとフルタイマーでさえ昇給はほぼ無く、欧州の無資格者レベル、つまり最底辺の年収を強いられます。しかも年間労働時間が2000時間に迫るという過酷な現実もあります。

以上をまとめると、日本は正社員でありさえすれば、年功昇給で誰もがかなりのレベルまで年収がアップする。欧米ではエリートとノンエリートの区別が厳然としてあり、昇給するのはエリートだけ。こういう仕組みの違いがあるわけです。

◆日本の年功カーブが、「昇給幻想」を生んだ

それではここで見方を変えて「生涯賃金」という視野で考えていきましょう。日本の企業の正社員は年功昇給がありますから、年々右肩上がりで収入が増えていく。するとなんとなく生涯賃金も上がったように「誤解」してしまうのです。去年より給与が上がったからと言って、それは先輩でも後輩でも同じように上がる既定路線であって、自分の生涯賃金が上がった事にはならないのです。生涯賃金をアップするためには、この右肩上がりのライン全体をさらに上方にシフトして「底上げ」しなければならないのです(下図左、赤い点線)。

ところが欧州のように、年功昇給がない国で給与を増やす為には、ベースアップしかありません。ずっと横這いの給与体系をベースアップ主流で積み上げていくから、当然トータルの生涯賃金も上がります。かたや年功昇給があるために、生涯賃金も「上がっているように誤解しているだけ」の日本、この違いに気付いてほしいのです。

(深田)

そういうことですか! 欧米はベースが上がらないと生涯賃金が増えないのですね。

(海老原)

生涯どころか今の給与も増えないのです、年功昇給がありませんから。

◆この30年は年功昇給カーブの是正期でもあった

さらに言うと、日本の場合はこの年功昇給カーブが急過ぎて、労働者が貰い過ぎの状態だったという認識が経営側にあります。これを是正しようということで、昇給カーブの勾配が今どんどん緩やかにされているのです。1000人超の大企業なら1989年の時点で初任給の3.4倍まであがっていたのに、29年後の2018年には2.7倍ほどに抑えられています。10人以下の小会社でも2.5倍まで上がっていたのが、今はかろうじて2倍にとどく程度です。これら2つの要因で、日本は「給与があがらない」わけなのです。

(深田)

経済成長期に従業員が貰い過ぎていたのを「是正しないといけない」という力がはたらいて、賃金が安くなっているのですね。

(海老原)

そうです。経済成長していた時代は役職も増えるので、課長になれる人がいっぱいいて、給与もどんどん上がっていました。それはもう止めようという動きが今確かにあって、実際に昇給率が下がってきています。

しかし、この年功昇給カーブに乗っている労働者自身の視点だとどうなるでしょう。昔より昇給率が圧縮されていることも知らないから、年々給与が上がる目先の現象で誤解し安心してしまいます。だから、昇給カーブ自体をさらに上方シフトさせて生涯賃金もアップしたいと思うような「圧力」が出て来ないのです。

雇用・賃金の専門家が「日本は給与が上がるから、生涯賃金が上がらないのだ」とよく言うのは、こういう仕組みだからです。ここをよく理解してほしいですね。去年に比べて給与がいくら上がったかの話ではない、昇給カーブ自体を上にシフトさせなければいけないのだ、と気付いてほしいのです。

(深田)

そういう仕組みだったのですね。日本では会社に入ったら時が経つに任せて勤めていれば給与が自然と上がっていくので、欧米のように懸命にベースアップを求めるモチベーションが起こりにくいと。

(海老原)

年功昇給がなく一生似たような給与、精々1割しか上がらない人たちだったら、なんとか上げなければと切実に思いますよ。

(深田)

そのために団結もして。

(海老原)

そうです、だからストライキだってやる。これが日本だと、去年に比べて給与が上がったからいいやと満足してしまう。実はその昇給率は先輩よりも少なくなっている、という客観的な視点が分からないのです。この辺の仕組み、賃金論をやっている人達はよく話すのですが、マスコミは全く理解してくれません。ここまでをまとめると、

【日本は定昇と職能UPにより、多くの人に年功昇給が起きる。ただし、それは生涯賃金のUPには全くなっていない】

だから給与が上がらないのです。

(深田)

そうか、給与体系の全体像を見なければいけない、という事なのですね。

(海老原)

はい。それでは2つ目の理由にいきましょう。

◆日本が賃安になったもう一つの理由~人口激減なのに労働者は増えている!

一人当たりGDPでは韓国・台湾よりもまだ日本の方が上なのに、平均賃金では日本が下になっているとよく聞きます。それは何故かをまずご説明します。

これには15才から65才までの「生産年齢人口=多くの人が働ける年齢層の人口」が大きく影響しています。日本ではこれが1995年に約8726万人でピークを迎えました。ところがそこから25年間で1200万人以上も減って、いまの生産年齢人口は7471万人です。しかし就業者数は逆に約500万人も増え、過去30年間で一番多い6715万人になっている、ここに気付いてほしいのです。

(深田)

すごいですね、これは女性の就業者が増えたからですか。

(海老原)

女性が、と言うより女性も含めた「非正規労働者数」が異常に増えたからです。正社員数は2002年頃からおよそ3400万人前後で推移していますが、非正規は1996年の1043万人から2019年の2166万人まで2倍以上に激増しているのです。

(深田)

結婚して一度退職された女性が、非正規雇用で戻ってきているからでしょうか。

(海老原)

そうです。マクロ経済をやっている人々はこれを「正社員だった人達を非正規に振り替えたからだ」と言いますが、実際は違います。2120万人もいる非正規のうち52%は主婦、主婦以外で55才以上のシニア層が17%、学生が10%。これだけで非正規雇用のほぼ80%になります。2002~2017年の15年間で、学生は2割程度の微増ですが、65才以上の非正規労働者は91万人から約3.5倍の316万人に、656万人だった主婦の非正規は4割増で915万人になりました。つまり正社員を非正規に振り替えたのではなく、今迄働いていなかった人達に働いてもらっているのです。

(深田)

フルタイムは無理なので、パートで働く非正規労働者が増えたのですね。

(海老原)

そう、主婦・シニア・学生のいわゆる「辺縁労働者」が非正規2100万人の8割、1700万人を占めるようになってきたのです。だからパート労働の多いこの非正規も全部含めて「平均年収」を算出したら、下がるに決まっているでしょう。

(深田)

それはそうですよね。

(海老原)

単純に考えて、就業者人口が500万人も増えて給与原資が同じであれば、平均年収は下がります。さらにこの人員増加は、先ほど述べた「昇給の見込みがほぼ無い」極めて廉価な非正規の辺縁労働者=主婦・高齢者・学生の参加によって賄われているのですから、一人あたりの平均年収は下がって当り前ではありませんか。

(深田)

しかも配偶者控除の壁などがあって、誰もが年収150万程度で働くのを止めていますからね。

(海老原)

そう、だからなぜ日本は一人当たりのGDPでは韓国・台湾より多いのに、平均給与が少ないのかと言えば、パートタイマーの労働参加者が大量に増えたから。ここに気付いてほしいのです。

(深田)

女性の4割が年収200万円以下で、ほとんどが主婦か学生のパートですものね。

(海老原)

そう言うことです。いくら働いてもお金が入ってこない「ワーキング・プア」という話がよく出ますが、実際は縁辺労働者である主婦・シニア・学生が8割を占めているのです。しかし残りの2割にこそ、工場等で働く非正規の壮年男性や働き盛りの独身女性など、本来のワーキング・プアがいますから、この2割の人達に絞ってもっと手厚くサポートすべきなのです。この人達に絞れば、もっともっと手厚い施策が出来るはずなのです。

(深田)

そう、ターゲットをちゃんと絞って政策を打たないといけませんね。ただ漫然とやっていると、なんの意味も無い政策に予算を注ぎ込むことになりますものね。

(海老原)

おっしゃる通りです。きちんと対象を絞ればこんなに少ないのに、2100万人全体に広げてしまうから、逆に施策が動かなくなるのです。

(深田)

じつは結婚されている方に、できたらもっと働いて欲しいとお話をしても、親の介護や子供の世話などがあって、年収150万円の壁よりさらに手前で気持がくじけているという感触がありました。そういう方々は既にご主人がしっかり働いていて充分な収入があるので、エキストラ(おまけ)の収入ととらえている方が多いようです。

逆に一番問題なのは、年収200~250万円以下くらいの非正規の独身女性の生活が大変な事ではないかと思うのですが。

(海老原)

独身の非正規フルタイマーは男性にもいますけれど、とにかくそういう人達にこそ手厚い政策を考えないといけないですよね。それから年収の壁が昨今騒がれていますが、実は今この壁に対してすごい助成金が出されているのです。年収の壁を越えてしまった人用に「企業はその分多く、これで払いなさい」という助成金を政府が払っているのです。つまり保険料や税金で引かれて手取りが目減りしてしまわないように、さらに給与を上乗せさせられる助成金が、普通にもらえるのです。

しかしこれは素晴らしい反面、すごくトリッキーな罠でもあるなと私は思っています。なぜなら企業が、助成金が出るならばと給与水準を上げてしまったとする。でも上げた後で助成金が中止になったら?

(深田)

それは下げにくいですよ!

(海老原)

そう、下げにくい。だからこれはうまい年収アップ策ではないかと思っているわけです。

(深田)

なるほど、いろいろと策を講じてきますね。

(海老原)

はい、あちらも手練手管で今やっています。でもここには、次の課題が控えています。

◆今後、前期高齢者は激減していく

今、非正規の給与がどんどん上がっていますが、その背景を考えます。

今までは「働いていなかった主婦・高齢者」という労働者予備軍がたくさん居たわけです。ただし高齢者といっても労働市場に参加してくるのは前期高齢者だけで、75才を越えた後期高齢者はなかなか出て来ません。この前期高齢者がいま激減しています。現在日本は逆ピラミッドの人口構成ですから、今迄たくさんいた前期高齢者が75才を越えてしまうと後が続かない。第一次ベビーブームの世代が75才を越えて次々と引退していくため、前期高齢者のパートタイマーがどんどん減ってきているのです。これが、非正規の最低賃金を上げてもいいという圧力になっています。

(深田)

なるほど、そういう事態が起こっていたのですか。

(海老原)

その次は主婦です。以前は結婚や出産で退職して一度家庭に入ったあと、再びパートタイマーになるパターンが主流でした。しかし現在は、結婚しても8割は仕事を辞めず、子供が生まれても9割は辞めず、非正規でも6割が出産後もフルタイム勤務を辞めない。こういう状態になると、一度専業主婦になって、再度パートタイマーで復帰するという新規労働人口がどんどん減ってくるのです。

このようにして、非正規を支える人材だった専業主婦と高齢者がいなくなり、少子化以上に人手不足が進んでいるのが今の非正規労働市場なのです。女性の非正規は2019年をピークに毎年30万人のペースで減少し、高齢者は毎年40~50万人の減少ペース、合計で80万人の労働力が年々減っていってしまうから、非正規の雇用を確保する為にはとんでもない待遇アップをしなければならなくなっているのです。

◆なぜ欧州はベアが起き続けるのか?~労働組合形態の功罪

最後にもう一つ「なぜ欧州では給料が上がり、日本では上がらないのか」という問題を考えておきたいのです。欧州の場合はある職種同士、販売職なら販売職同士の組合、というように企業間を越えて全員を束ねた「企業横断型組合」になっています。日本は各企業の中で結成される個別の企業内組合ですね。この「労働組合の形態の違い」が給与にどう影響するのかを見ていきます。

仮に企業内組合で給与アップを求めてストライキをやったとします。すると自分の会社だけ操業がストップするから、他の会社に仕事を全部奪われてしまいますね。ストライキを打った労働者はライバルに仕事をどんどん奪われ苦しくなってしまうから、なかなかストライキを打てない。逆に企業側も、要求を呑んで給与を上げたとすれば、賃上げした分を価格転嫁したくなりますね。しかし製品を値上げしたら他社との市場競争で負けてしまう。つまり企業内組合では賃上げ闘争が実現できないのです。

ところが欧州では同業種の企業一律でストライキを打つし、企業側も一律で給与を上げるから、競合他社に出し抜かれる恐れがないわけです。

(深田)

なるほど、コンペティター(競合他社)と一緒に賃上げをすれば、物やサービスの値段も上げられますね。

(海老原)

そう、一社だけでは価格転嫁できないし、一社だけストライキをしたら仕事を奪われるけれど、全社でストライキするから価格転嫁もできるわけです。

(深田)

確かにアメリカでは、例えば色々な自動車企業の社員たちが徒党を組んでデモをやっていますね。自分たちの賃金を上げてくれ、自動車産業全体で賃金を上げるようなんとかしてくれと皆で連帯感をもって要求が出来るので、企業としても応じざるを得ないですよね。

(海老原)

アメリカの場合は、正確に言うと少し違います。アメリカはUAW(United Auto Workers/全米自動車労働組合)のように強い組合もありますが、アメリカ全体で見るとほとんどの労働組合は強くありません。むしろアメリカでは転職が盛んで、高い給料を提示する企業に労働者が移ってしまうため、市場に合わせた給与水準にしておかないとすぐに転職されてしまう、という事情の方が大きいのです。欧州であれば横断型組合の交渉で、ひとつの産業分野全体の賃金を引き上げられます。

結局、日本の労働組合で賃金交渉が進まない理由は、企業内労組という形に問題があると言えます。ここもなんとか越えられない(かと言う)問題ではありませんか。

(深田)

日本の労働組合は、こう言っては失礼かもしれませんが、なにかやる気の無さというのが……。

(海老原)

それはちょっと誤解ですね、日本の労組をよく知っている人はそうも言えないのです。なぜかと言うと、今日の話題からは若干外れますが、労組が扱う範囲が欧州と違うからです。欧州では給与アップの交渉は労組がやり、企業内の様々な調整は従業員代表制という仕組みに任せています。ところが日本では、労組が両方やらなければならず、辛いところがあるわけです。

(深田)

その両方とは、具体的にどういう事でしょうか。

(海老原)

欧州の労組は企業内の案件には立ち入りません。例えば経営側が工場の一部を閉鎖したい場合、従業員代表制により従業員の代表と交渉します。日本の労組はこの従業員代表の仕組みも兼ねていて、工場閉鎖の相談を受けたら、労組が従業員と交渉しなければなりません。つまり企業内調整と賃上げ交渉、この両方をやっているから日本の労組は大変なのです。

(深田)

なるほど、それは大変ですね。

(海老原)

こんな話、日本のマスコミは誰も知らないでしょう?

(深田)

いや、私も知らなかったです。

(海老原)

まあ知らないのが普通です。ここまでの話もまとめておきましょう。

【日本のストは個別企業、欧米は全企業同時。日本のストは自社のみを苦しめる。日本の昇給は自社に留まり、だから価格転嫁もできない。全社一律賃上げなら価格転嫁も容易。】

では日本で(生涯賃金)給与アップを実現するにはどうしたらいいのか。現状では最低賃金アップの一本柱になってしまいます。ただ、この「一本足打法」でやれば全社一律でやるから市場競争に影響せず、安心して価格転嫁はできるわけです。

(深田)

そこで私が気がかりなのは、一律で引き上げた時に、地方のさびれた所の零細企業などはどうなるのか、という事です。

(海老原)

一律で上げるから、価格転嫁はできますよね。

(深田)

はい、必然的に価格転嫁せざるを得なくなりますね。

(海老原)

ところが個人事業主は給与を払う従業員がいないからその分得します。つまり従業員が居たら人件費アップした分を価格に転嫁するから、例えば最近のラーメン代のように高くなりますよね。でも個人事業主なら従業員がいないので最低賃金アップは関係ない、だからラーメン代据え置きのままで出せるわけです。

(深田)

そうか、価格競争力は個人事業主の方が強くなるわけですね。

(海老原)

そう、こういう形で零細業種は少し得する部分もあると気付いてほしいのです。

(深田)

なるほど、面白いですね。

(海老原)

いま日本の所得対策は最低賃金アップ一本槍なので全政党が、自民党までが頑張っていますね。この流れでいくと2030年頃には1500円台に上がるのが充分見えています。

(深田)

そうですね、すでに都内では1500円くらいは出さないと労働力が集まりません。

(海老原)

今後もこの調子で1500円から2000円と上がっていくでしょう。するとその時に、2つの事が起こってくると気付いてほしいのです。

(深田)

2つの事、それはなんでしょうか。

(海老原)

1つは、この最低賃金アップの流れに付いてこられない企業は潰れるということ。普通なら潰れると失業者がたくさん出る筈ですが、いまは人手が決定的に不足していてむしろ企業数が余っている状況ですから(労働政策的には)潰れてもいい、となるのです。これをレーン=メイドナー・モデルと言いますが、これをやると労働力が給与をたくさん払える生産性の高い企業に集まるので、日本全体の生産性が上がります。

今までは人手のほうが余って企業が足りなかったから、企業を優遇し時には保護して、たとえブラック企業でもなんとか人を雇ってもらわなければという労働政策でした。しかし今は人手が枯渇しかかって企業が余っていますから「いくらでも潰します」という方向に移りつつあるのです。

(深田)

そういうシフトが起こっているのですね。

(海老原)

そう、だから非正規の賃金もどんどん上がっているのです。

(深田)

確かに最近、賃金が改善傾向なのでバイトや非正規の人には追い風なのかなと思っていました。

(海老原)

しかも年収の壁を越えたら、助成金で給与を補填する仕組みになっていますから、かなりいいサイクルになっているわけです。でもここで考えて欲しいのです、この流れが進むとどうなるのかと。これが2つ目に起こる、最後の最後に考えなければいけない事です。

◆最後は日本人の心の問題

「給与が上がる→価格転嫁する」このサイクルが繰り返されていくと、欧州のようにマクドナルドでハンバーガーとコーラを買ったら1500円、という世界が近くなります。

(深田)

そうですね、はい。

(海老原)

これは最終的に、皆さんの生活にかかわりますね。ではどうして欧州はこの物価高を許しているのだろう。ここが考えどころです。

日本はこれまで、食べ物でもサービスでも安い価格で享受できました。でもその裏には、低賃金に喘いでいる非正規の人々がいたわけです。欧州では飲食業など非正規の給与もきちんと上げて、彼らが苦しまないようにした結果、消費者が苦しむようになりました。消費者も痛みを分かち合うようにしたわけです。

でも日本人の僕らは、果してこういう感覚でいけるだろうか。日本の非正規が余りにも安すぎる問題の根底は、僕らがそういう労働力に対して「安いものにしか払いたくない」と心の中で思っていることでしょう。でも、かりに僕らが牛丼一杯に800円も払う社会になれば、低賃金だった彼等は楽になる。そんな社会になるように「消費者と働いている人とで痛みを分かち合おう」そんな心構えに日本人はなれるだろうか、というのが最後の問題なのです。あなたは出来ますか?

(深田)

私は、出来ると思います。

(海老原)

もっと高いもの食べているからね(笑)

(深田)

いやいや自炊です、自炊! おにぎり食べています(笑)。

(海老原)

たしかに自炊は増えると言われていますね。あとクリーニング代も高くなると洗濯も自宅でするようになります。するとその結果、家庭内労働が増えるので結婚が増えます。なぜなら二人で暮しても食材の量とかそんなに変わりませんし、独身でやるより手間が分担できるので結婚が増える、こういう効果もあるのです。

(深田)

ああ、それいいですね! もう結婚せざるを得ないと言うね。

(海老原)

だから欧米では、結婚はしなくても同棲して暮らす率が異常に高い。家事分担をする仕組みになっているからです、基本的に外食しませんから。

(深田)

確かにそうかも知れないです、レストランなども異常に高いですものね。

(海老原)

そう、異常に高い。私は中間的職務とか、資格ワーカーの人達40人ぐらいにインタビューしたのですけれども、私が「少しは残業して、みんなで呑みにいけばいいじゃないか」と言うと「あり得ない!」と言われます。理由を聞いたら家に帰らないといけないと言う。地域の社会奉仕など楽しい仕事でもあるのかと思ったら「家に帰ってご飯食べない限り、外では食べられないから。私達は外食なんて年に2・3回、ハレの日しかやらないのです」とワーカーの人達みんなが言うのです。それぐらい慎ましやかになっています。

(深田)

確かに私も仕事でジュネーブに滞在した時は、余りの食費の高さに、パンとチーズばかり食べていました。

(海老原)

高いパンを食べていたのでしょう(笑)

(深田)

いやいや高くないですよ、一番安いのです(笑)。

(海老原)

だって向うは高いでしょう、ちょっと食べてもすぐ2000円くらいかかりますものね。

(深田)

サンドイッチですら、1500円~2000円していました。

(海老原)

ほら、やっぱり食べていた(笑)

(深田)

いやいや、私はパンだけです、パンだけ(笑)。

(海老原)

まあ、そういうことで結局、最後は心の問題に帰結してしまうのです、金融も賃上げの話も。

(深田)

そうですね。今後低賃金を脱却したとしても、ファーストフードで1000円以上のお買物を受け入れられるかどうかという「日本人の心構え」が問題になると。

(海老原)

そういう事ですね。

(深田)

という事で今回も海老原先生から、まさに目から鱗の衝撃的なお話と、ついでに私へのかなりキビシイご指摘をいただきました(笑)。

(海老原)

ごめんなさい(笑)。

(深田)

今回も、ありがとうございました。

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