【細胞の記憶】あなたの起源はおばあちゃんの●●の中!戦中の音波を記憶する孫の謎 さとうみつろう氏 #576
【目次】
00:00 1.オープニング
00:42 2.日本の文字が形成されてきた歴史
06:48 3.国民を統治するにはまず言語の統治から
10:12 4.地球に生誕したのは祖母からの命
※こちらの記事は「#568_台湾にバックアップがあった!ジャポニカ米由来の腸内細菌で定義する日本人論とは? さとうみつろう氏」の後編になります。まだお読みでない方は前編よりご覧ください。
(さとう)
まず一つ目はお米で、二つ目は言葉、すなわち言語です。そもそも言葉、言語とは何のために生まれたのかといえば、目の前で起きていること以外の出来事を、初めて他者と共有できるようになった、という点にあります。これは人間が初めて獲得したものであり、生物、すなわち他の動物は、目の前で起こっていることを、目の前で起こっているままに受け入れるほかありません。私たちは大脳新皮質が発達しているため、言語によって、例えば「トイレ」と言えば、それが今トイレのことを指すのだと、互いの頭の中で共有できます。最初は音波だけであり、どの民族でも、はじめは音波でした。文字は後から生まれたものです。実は、大和という国には、中国から漢字が入ってくるまでは、音波信号のやり取りしかなかったわけです。
私はそれを、遅れているのではないかと長らく思っていました。しかし、先ほど触れた『反穀物の歴史』の著者によれば、そもそも文字が必要とされたのは、税の徴収官が税金を徴収するために記録を残す目的から始まっている、というのです。そのため、日本に文字がなかったことについては、神代文字があったとする人や、カタカムナなどを挙げる人もいますが、仮に本当になかったのだとすれば、「なかった」という事実は、税を取らずに生きてこられたという豊かさの象徴であり、拾って食べて暮らせたということでもある、というのです。
一方で、向こうでは、どうしても税の査定が必要だったために、おそらく文字が生まれたのでしょう。そして、その文字が漢の国から入ってきます。もともとあった言葉に、漢字を無理に当てはめていくことになります。これは前回、政経プラットフォームでも触れたと思いますが、万葉仮名のことです。音波信号しかないところへ中国から来た「形」をどう当てはめるかという点で、ヤンキーの「夜露死苦」のように、音に合わせて無理に漢字を当てていったのです。これが万葉仮名であり、漢字を「真名」と呼ぶ一方で、「仮名」とは自分たちが作ったもので、とりあえず仮に当てておく、という意味合いでした。
こうして中国文明の漢字が入ってきます。文字は四つ生まれたのです。四大文明の川のほとりで、全部で四つ生まれ、そのうち二つは消え、今は二つだけが残っています。一つはエジプト系の文字が、アメリカの言葉などにつながり、もう一つが漢字です。つまり二つだけが残っているわけです。
中国から入ってきた漢字は、当初、写経をしていたお坊さんが、読むために書いていたものが、次第に面倒になり、簡略化されていきました。その「適当な文字」がカタカナとなり、ひらがなになっていったのです。
戦争が起こるまで、私たちはその難しい漢字を使っていました。いま中国には繁体字と簡体字がありますが、私たちは例えば「氣」という字に米が入っていたり、「體」という字が「骨が豊か」と書かれていたりするように、難しい漢字を用いていました。一文字をぱっと見るだけで、頭の中に情景が浮かぶというのは、非常に大きいことだと思います。
韓国はいま、韓国文字、すなわちハングルを使っています。これは戦後に、無理にその方向へ移行したものですが、韓国にも当然、漢字がありました。ところが漢字廃止令のようなものが出され、その際には、ものすごい反発が起きたそうです。その理由は、いま私の視界に深田さんの本が見えますが、「光と影の」と書いてありますよね。これをすべてひらがなで「ひかりとかげの」とすると、把握するのに時間がかかるからです。
(深田)
そうなのですね。スペースも取りますし。
(さとう)
スペースも取りますし、そうした理由から韓国ではかなり反発があったにもかかわらず、漢字は無理に廃止されてしまいました。日本も漢字が入ってきて、確かに大和にもともとなかったものかもしれませんが、結果として大いに助けられてきた部分があると思います。戦後、日本はGHQの方針のもとで字体を簡略化しましたよね。「骨が豊か」と書く「體」が、いまは人偏の「体」になっています。そうした字体の整理が戦後に決められた一方で、大陸のほうはさらに簡略化が進み、いわゆる簡体字となりました。
例えば広島の「広」は、「广」のこの部分だけになっています。本来は「廣」のように複雑な形だったものが、日本では「ム」が入っていますが、中国ではその「ム」すら抜いたような形になっています。私が言いたいのは、台湾に行ったとき、繁体字が残っているのはまさにここだ、と思ったということです。昔、私が小学生くらいのころは、体育館もまだ「體」と書かれていました。私は45歳ですが、いま韓国に行くと「体」は全部「體」で書いてありますし、「気」も全部「氣」で書いてあります。そこに、昔の日本人の先輩たちが親しんできた字体が残っているのだ、と感じました。
(深田)
昔の漢字は、香港、台湾、シンガポールなどに残っているのですね。私も老子が好きで、老子の本を中国語版で買おうとすると、大陸にはなく、原本に近い形の漢字が残っている版が比較的多いので、探してみると台湾だけではなく、香港やシンガポールなどにもいろいろ残っているのですよね。
(さとう)
香港とシンガポールは、私の印象ですが、英語の比率も高くなっていますよね。
(深田)
英語教育も非常に進んでいて、英語が公用語ですから英語も使われていますが、漢字自体は繁体字が残っていますね。
(さとう)
逆に台湾は、英語を話せない人がいるのだと感じて、驚くほどです。
(深田)
台湾は、やはり日本語を使える人が多いですよね。統治時代の名残も残っていますし。
(さとう)
そのため、繁体字が残っているという点は、やはり大きいと思います。先ほど韓国の話が出ましたが、ハングル文字に移行したとき、戦争の勝者が敗者に対して最初に行うことの一つは、言語を変えることですよね。アフリカの奴隷の時代から、互いに協力されると困るという理由で、公用語を変える、ということが行われてきました。同じように、漢字も、これまで使い慣れてきたものを急に変えられると、社会全体が一気に弱くなる面があるのだと思います。
(深田)
韓国の方に伺うと、漢字が読めなくなったことで、以前の歴史が若い人たちには理解しにくくなっている、とおっしゃっていましたね。
(さとう)
そのため、これは一つの焚書の方法だと思うのです。実際に燃やさなくても、いまの若い人たちは読めないではありませんか。私も昔の日本の漢字が読めないので、偉そうなことは言えませんが、そうした文化がきちんと台湾に残っている、という点は重要だと思います。台湾には、私たちの先輩が50年間にわたって整備してきた道路など、さまざまなものがあるかもしれませんが、そこに日本人が忘れてはならない心を置いていったのだと、私は考えています。
そして、いつか自分たちの国が西洋一色になり、GHQによって旧字体も禁じられ、米も食べなくなるような時代が来たとしても、そのとき子孫が台湾に渡り、「バックアップセンター」のように残されている昔ながらのものを感じ取り、帰国後に過去を思い出して日本が再興していく、そのために残されたのではないかと思えるほど、私は強く感じています。
(深田)
実は台湾は、国民党が入ってきてからしばらく、台湾語や日本語が禁止されていたのですよね。したがって、教育は完全に大陸の漢字に寄っていたはずです。そのため、漢字が残っているという点についても、私自身が昔の漢字に明るいわけではないので断定はできませんが、日本がかつて教えていた漢字なのか、大陸から来た本来の中国の漢字なのか、どちらが主流になっているのかは、正直なところ、私には判別がつきにくいのです。
(さとう)
蒋介石がやってきたとき、国民党は、本来なら南京のはずなのに北京の言葉を公用語にし、いまお話しの通り、台湾で日本語も台湾語も禁じたわけです。その結果、本省人と外省人という構図で、強い対立が生まれたのだと思います。
(深田)
おそらく華語、いわゆるマンダリン(中国語の標準語)だと思います。逆に、蒋介石の夫人である宋美齢は浙江語を話していたため、台湾政府と宋美齢がやり取りをするとき、浙江語のなまりが強すぎて何を言っているのか分からない、という話もあります。李登輝先生が宋美齢に対して、「なまりが強くて、何を言っているのか分かりません」といった趣旨のことを述べた、という逸話もありますね。
(さとう)
台湾南部では、それも分からない、という話を聞きました。台湾華語と言うのでしょうか、私も正確には分かりませんが、台湾には、いま申し上げた北京語も入ってきていますし、台湾語もありますし、日本語の影響もある。それでも、南部ではそうしたものが守られている、という話を聞きました。
ここからは、少し別の話になります。台湾の北のほうに、基隆(キールン)という町があります。行かれたことはありますか。
(深田)
ありません。
(さとう)
基隆は台北からタクシーで30分ほどで行ける場所ですが、ツアーの80名が帰った後、私は一人でそこへ行ってきました。なぜ行ったのかと言えば、母方の祖母が与那国で生まれ、戦時中に台湾へ疎開したからです。祖母はそこで石垣島から来た祖父と出会い、私の母は台湾の病院で生まれました。その場所が基隆なのです。与那国や石垣には、戦時中に台湾で生まれた人が多く、「湾生(わんせい)」と呼ばれますが、戦後すぐに日本へ戻っています。
私がなぜ基隆へ行ったのかという点については、産婦人科の先生から聞いた話がきっかけでした。「あなたが初めてこの地球に形成されたのは、祖母の子宮の中だ」というのです。この話はご存じでしょうか。
(深田)
存じ上げません。祖母の子宮の中、ということなのですか。
(さとう)
はい。深田萌絵さんがこの世に初めて形成されたのは、「お母様のお母様」、つまり祖母の子宮の中だということになります。なぜなら、祖母がお母様を妊娠している時点で、胎児であるお母様の体内には、すでに一生分の卵細胞が形成されているからです。
(深田)
そうなのですね。卵はその段階で形成されるのですね。
(さとう)
一生分の卵細胞は、その後に新たに作られるわけではありません。したがって、深田萌絵さんの卵細胞は、お母様が胎児であった時、つまり祖母の体内にいる段階で形成された、ということになります。
(深田)
驚きますね。
(さとう)
私はこの話を産婦人科の先生から聞いて、「自分は祖母の体内で初めて形成された存在なのだ」と強く実感しました。実は、そのことが、子育てをする中で長年抱えていた疑問を解くきっかけにもなりました。私には子どもが3人おり、上の子は高校3年生の長男ですが、真ん中の子が、なぜか公園で流れるアナウンス放送を2歳頃に聞くと、ひどく怯えるのです。米軍機の騒音で怯えるのは理解できますが、いわゆるラジオ放送のような音声に怯える理由が分からず、ずっと不思議に思っていました。
しかし、妻の母、つまり子どもにとっての祖母が、妻を妊娠していた時に受けた衝撃や恐怖が、子どもに受け継がれることがある、という考え方を知って腑に落ちました。戦時中の沖縄では、ラジオ放送が空襲の合図になることがあり、放送が流れると人は強く怯え、身体がこわばり、細胞レベルで縮こまるような反応を示します。胎児には鼓膜もなく、記憶を担うニューロンも未発達ですが、音波と身体反応の結びつきが、何らかの形で刻まれるのではないか。そう考えると、特定の音波を聞いたときに理由もなく怯える、という反応にも説明がつくのです。実際、私がこの話を本で取り上げた際にも、「戦時中に身ごもった世代の孫が、なぜか放送音に怯える」という例が少なからずありました。この理屈でいけば、世代が下るにつれて、その反応は薄れていくのだろうとも思います。
そうした縁もあって、私は「自分がこの地球上に初めてやってきた場所は基隆なのだ」と気づき、だからこそ基隆へ足を運んだのです。
(深田)
そうなのですね。たしかに、そのように考えると筋が通りますね。
(さとう)
私は基隆に行ったこともありませんでしたし、台北から少し離れていることもあって正直怖さもありましたが、思い切って行ってみました。台北からタクシーで30分ほどで基隆に着き、「ここで祖母と祖父が疎開中に出会ったのだ」と思いながら、町を歩いて回りました。しかし、日本語を話せる人もほとんどいませんし、どこへ行けばよいのかも分からなかったのです。母から「神谷医院で生まれた」という話だけは聞いていたので、「神谷医院はどこにあるのか」と尋ねてみても、戦時中に日本人が作ったと思われる病院自体が、もう残っていないようでした。
それでも、行ってよかったと心から思えたのは、現地に氏神というか、日本でいう神社に近い存在として、寺院ではなく廟がいくつかあったことです。廟が3つほどあり、そこで手を合わせました。「祖母がここで妊娠していた間に、きっとバスにも乗っただろう。その時、この町の人たちが優しくしてくれたに違いない。荷物を持ってくれた人もいただろうし、水をくれた人もいただろう。日陰で休ませてくれた人もいたはずだ。その人たちの子孫が今もこの町にいるはずだから、ありがとうございますと言いたい。」
そう思って、よく分からないながらも、3つの廟を回って感謝を伝えました。戦時中という厳しい状況の中で、祖母が生き延びられたのは、その町の人たちの優しさや愛情があったからだと思います。そうした支えがあったからこそ、つながりの先に私が生まれているわけですし、そもそも私は祖母の体内にいたはずですから、その意味でも感謝が自然に湧いてきました。
だからこそ、皆さんも、お母様が胎児だった頃、つまり祖母がお母様を身ごもっていた期間に過ごしていた町に行き、氏神にあたる場所へ手を合わせて感謝を伝えるのは、とても良いことだと思います。
深田さんはどこになるのでしょうか。
(深田)
多分、大阪にいたのだと思います。
(さとう)
それなら意外と近いですね。私のように遠く離れている人ほど、特に行ってみる価値があると思います。
(深田)
そういうのは良いですね。少し離れた場所を探索する、というのは。
(さとう)
はい。情緒もとてもありました。自分が初めて地球にやってきた場所だという思い込みがあるからかもしれませんが、気温や湿度まで自分に合っているように感じられて、気持ちがすっきりして帰ってこられました。ですから、政経プラットフォームをご覧の皆さんも、お母様が胎児だった頃、すなわち祖母がお母様を身ごもっていた十月十日の間に過ごしていた場所を思い出し、その町の人々の優しさのおかげで今の自分がいるのだと考えて、町に脈々とつながる神社などへ行き、「ありがとう」と伝えてくることは、決して悪いことではないと思います。気持ちもすっきりしますので、おすすめです。
(深田)
ありがとうございます。
(さとう)
うまくまとまったのではないでしょうか。
(深田)
良い話でまとまりましたね。
(さとう)
今日も、沖縄から来て、しゃべり散らかしてしまいました。
(深田)
またぜひ、もっともっとお話をしていただきたいと思います。
ということで今回は作家のさとうみつろうさんに、言語と祖母の子宮が起源になっているということについてお話をうかがいました。どうもありがとうございました。
(さとう)
ありがとうございました。





