#413 最高裁が弱体化?国家権力乱用の暴走を止められない日本の司法の闇とは? 樋口英明氏×深⽥萌絵
(深田)
皆さん、こんにちは。政経プラットフォームプロデューサーの深田萌絵です。
今回は、元裁判長の樋口英明さんにお越しいただきました。樋口先生、本日はよろしくお願いいたします。
(樋口)
よろしくお願いします。
(深田)
先生といえば、これまで原発問題に専念して活動されてきたことで知られていますが、今回は少し趣向を変えて、最近の選挙でもテーマとして取り上げられることの多い「憲法論」についてお伺いしたいと思います。裁判官の間では、憲法改正案に関する話題が取り上げられることはあるのでしょうか。
(樋口)
ほとんどありません。全くと言っていいほど話題に上らないと思います。
(深田)
全く上がらないのですか。それはつまり、憲法改正自体に興味がないということなのでしょうか。
(樋口)
現行の憲法や法律を扱うことで手一杯、というのが実情です。
(深田)
つまり、現行の枠組みの中で対応することで精一杯で、次の段階を想定することはあまりない、ということですね。
(樋口)
想定すること自体が難しいのです。一般の人よりもむしろ想定しにくい立場にあるため、議論に発展することはほとんどありません。
(深田)
確かにそうですね。憲法をどのように運用するかということで精一杯で、それ以上のことに意識を向ける余裕がないということですね。
(樋口)
その通りです。私自身は、現行の憲法は比較的よくできていると考えています。
(深田)
よくできているとお考えなのですね。
(樋口)
はい。憲法の根本思想、つまり「憲法は何のために存在するのか」という点に関わることですが、一般の法律は国民がそれを守るために存在します。一方で、憲法は国を縛るためのものです。こうした思想に基づいた憲法として、現行憲法はよくできていると考えています。
(深田)
しかし、憲法改正を望む方々の中には、「国民に主権があるのはおかしい。天皇主権にすべきだ、あるいは国家主権にすべきだ」という意見をしばしば口にする方もいます。
(樋口)
それは、主権という概念の理解が少し混乱しているのではないかと思います。
主権には二つの意味があります。第一に、日本国がアメリカに対して領空権を有し、日本の領土を支配している主体として、日本国が主権を持っているかどうかという、対外的な意味での主権です。第二に、その日本国を最終的に統治する権限を誰が持つべきかという、国内的な意味での主権です。
(深田)
なるほど。つまり、対外的な主権の問題と、国内で誰が主権を持つのかという問題の二つがあるということですね。
(樋口)
その通りです。私は、この二つを明確に区別して議論すべきだと考えます。
アメリカとの関係においては、日本は当然主権を保持すべきです。そして、日本国内で主権者が誰かといえば、それは国民であるべきだと私は思います。天皇陛下ではありません。
(深田)
そうですね。現行憲法では日本国民が主権を持っていますが、戦前の明治憲法では天皇主権が採用されていました。そのため、当時の体制に戻るべきだと考える人もいるのです。
(樋口)
そうした考え方があるのですか。
(深田)
あります。今回の参議院選挙でも、議席数を大きく伸ばした政党の中には、「国民主権ではなく、天皇陛下や国家が主権を持つべきだ」という論調を掲げるところがありました。
(樋口)
天皇が主権を持つべきだという意見は、概念として理解はできます。しかし、「国が主権を持つべきだ」というのは、基本的に対外的な主権の話です。対外的な主権の議論と、国内における主権者を誰とするかという議論が、混同されているのではないでしょうか。
(深田)
なるほど。さらに、国民の基本的人権を認めない方向性の議論も出てきています。中には、基本的人権に関する条文を丸ごと削除するという案もあります。
(樋口)
削除するのですか。
(深田)
はい。平成24年の自民党憲法改正草案では、該当条文が完全に削除されていました。また、「基本的人権の共有を妨げてはならない」という文言を、「基本的人権を享受する」といった表現に改め、あたかも国家が人権を国民に与える形へと変えているのです。
(樋口)
それでは近代国家とは言えなくなりますね。
(深田)
そうなると、どういった国家になるのでしょうか。
(樋口)
前近代的な国家です。国民主権と人権の保障は、現代においてはほぼ世界共通の基本原則です。それが守られていることは当然であり、その当たり前の仕組みを失うことになります。もし本当にそのような改正案が議論されているのだとしたら、裁判官としても非常に驚くところです。
(深田)
しかし、実際にはかなり本気で議論されています。例えば、自民党の西田昌司議員などは「国民主権なんてふざけるな」と発言し、天皇主権を主張しています。
(樋口)
それは天皇陛下も驚かれるのではないでしょうか。
(深田)
不思議なことに、さまざまな政党から改憲案が出てきていますが、その中には、言論の自由、表現の自由、学問の自由、信教の自由といった権利について、国家が制限してもよいという形に文言を変更しているものがあります。
(樋口)
確かに、どの範囲まで制限するのか、あるいはどのような理由で制限するのかについては、正当な理由があれば一定の制限が認められる場合もあります。しかし、それはあくまで例外であり、「制限することが原則」という発想ではありません。人権とは本来、国民一人一人に生まれながらに与えられているものであり、それを制限するには相応の理由が必要です。これが現行憲法の基本的な考え方です。
(深田)
そうですよね。現行憲法の考え方では、個々人が権利を主張して他者と衝突した場合、その調整は司法が担うという仕組みになっています。ところが、最近の新しい憲法案や改憲案、各政党の提案を見てみると、個人間の調整という発想ではなく、「公共の利益に反する」あるいは「秩序を乱す」場合には、国家が介入して権利を制限できるという文言に置き換えられているのです。
(樋口)
法的な用語では「公共の福祉」と表現します。「公共の福祉」とは、国家の利益を意味するものではありません。他者の人権や利益との衝突が生じた際に、それらを調整するという考え方です。これは法律家にとってはごく当たり前の発想だと思います。
(深田)
公共の福祉という概念は、おそらく一般にはあまり浸透していません。そのため、「公共の福祉に反する場合は」という文言と、「法の秩序を乱す場合は」という文言の違いが、十分に理解されていないのではないかと感じます。
(樋口)
確かに、この違いは難しく、微妙なケースも存在します。しかし、「公の秩序が人権に優先する」という発想は、少なくとも現代の近代国家においては極めて珍しい考え方ではないかと私は思います。
(深田)
こうした改憲案を支持する動きは、現在かなり大きな潮流になっています。むしろ、先ほど別の政治家と話をしていた際にも、現実社会において憲法が司法の現場でどの程度守られているのかについて、疑問があるという話になりました。この点について、先生はどのようにお考えでしょうか。
(樋口)
確かに、憲法の運用は緩んできていると私は感じます。
(深田)
緩んできた、というのは具体的にどういう意味でしょうか。
(樋口)
例えば、現在の原発政策が憲法に違反していると主張する人が、ほとんど、というより誰一人としていません。そうした視点からの主張自体が欠けているのです。
(深田)
なるほど。
(樋口)
現在の原発は、2011年3月11日の事故で明らかになったように、国家を滅ぼしかねない危険性を孕んでいます。当然、多くの人々の人権を著しく侵害する可能性があります。そのような制度自体が、根本的に憲法に違反している、違反するかどうかは最終的な判断として別にしても、「違反する」と明確に指摘する法律家が、私の知る限り一人もいません。これは、人権尊重という憲法の根本思想そのものが、弱まりつつある証左ではないかと考えています。
(深田)
なるほど。それは憲法のどの部分に抵触する可能性があるのでしょうか。
(樋口)
例えば、生存権や居住・移転の自由です。原発事故が発生した際には、「5キロ以内の住民は屋内にとどまること」、「30キロ圏内の住民は避難を開始するまで待機すること」などと、国が一方的に指示を出します。しかし、こうした命令を勝手に決めてもよいのでしょうか。居住・移転の自由は憲法22条で保障されており、これを侵害している可能性があります。本来であれば、こうした点について違憲の可能性を指摘する議論がもっと出てきてもよさそうですが、実際にはそうした議論は全く見られません。
(深田)
確かに、この国ではあまり議論が活発に行われない印象があります。
(樋口)
そうですね。議論自体がほとんど行われていません。
(深田)
本来であれば、リベラルな思想を持つ人々がこうした問題に対して強く立ち向かいそうなものですが、意外にもそうした動きが見られません。
(樋口)
その通りです。リベラルな立場の人々が意外と積極的に闘わず、むしろ私のようにかなり保守的な考え方を持つ人間のほうが、原発に対して厳しい姿勢を取るという、少し奇妙な状況になっていると思います。
(深田)
なるほど。実際、今の政治の世界では極右的な立場の勢力が原発推進に動いています。以前は、むしろリベラルが原発稼働に反対する運動を活発に展開していましたが、最近は報道でもその姿をあまり見かけなくなり、反対の声がトーンダウンしてきている印象があります。この点については、どのようにお考えでしょうか?
(樋口)
確かに、原発反対の声が減ってきているのは間違いありません。「原発を動かすのが当たり前だ」という風潮が広がっており、その結果として、今回の選挙でも原発は争点になっていません。
(深田)
選挙で、ということですね。
(樋口)
はい。今回の選挙で原発問題がほとんど争点にならなかったという事実は、非常に恐ろしいことだと思います。私は、日本で最も重要な課題は原発問題だと考えています。なぜなら、過去には単なる停電だけで、東日本壊滅の寸前の寸前の寸前まで追い込まれたからです。東日本が壊滅するということは、天皇陛下に京都へ移っていただくほどの事態です。そして、その危機は特別な要因ではなく、本当にただの停電によって引き起こされ得たのです。
(深田)
そう考えると、本当に恐ろしいですね。停電一つで、原発がそこまで危険な存在になるということですから。
(樋口)
あまり知られていないことですが、原発というのは非常に特殊な機械です。通常の発電設備であれば、運転を停止すれば安全な状態になります。例えば火力発電所では、運転を止めれば沸騰が止まり、安全が確保されます。しかし原発は違います。運転を停止してもなお、核燃料の発熱によって沸騰が続くのです。そのため、水と電気で原子炉を冷却し続けなければ、必ず暴走してしまいます。そして、一度暴走すれば東日本を壊滅させるほどの甚大な被害を引き起こします。
こうした性質を持つ施設が、日本国内で許されてよいのでしょうか。仮に憲法改正案が成立すれば、その領土は天皇陛下の領土となるわけです。保守的、極めて右翼的な立場からすれば、天皇陛下の領土をこのように汚すことは断じて許されないはずです。それにもかかわらず、この問題が議論の場にすら上がらないという現状は、極めて歪な状況だと感じています。
(深田)
やはり、この国ではさまざまな形で言論統制が敷かれていると感じます。私自身、発言したいことを口にすると、複数のメディアから圧力や妨害を受けるという経験をしました。そして、そのメディアの背後には必ず政治家の存在がある。この構造を踏まえると、これは言論の自由に対する深刻な危機だと言わざるを得ません。予想通り、各政党が提出している憲法改正案には、言論の自由を制限しようとする動きが明確に見て取れます。
(樋口)
私自身は、直接的に発言を制限された経験はありません。しかし、重要な問題であればあるほど、意図的に無視される傾向があると感じます。ここが非常に大きな問題です。賛成・反対の立場がぶつかり合い、大論争になるのは健全な社会の証です。しかし、そもそも争点として取り上げられないことこそが、日本における最大の課題だと考えています。
(深田)
政府としては、これも言論統制の一種であり、論争になれば世間に広く周知されてしまうため、そもそも議題に挙げないようにしているのだと思います。
(樋口)
そうでしょうね。そのように感じます。それが政府の主導なのか、あるいはマスコミ全体が申し合わせて行っているのか、私には断言できません。しかし、そうしたことが実際に存在していることは間違いないと思います。
(深田)
そうですよね。最近のメディアの動向を見ていると、特にテレビ局は顕著です。電波法を盾に「電波を取り上げるぞ」と何度も脅されてきた結果、完全に政府の意向に沿う姿勢に傾いてしまっていると感じます。
(樋口)
あのような発言や対応を見ていると、私は昔からマスコミには、どこか嫌われ者的な性質があり、言葉を選ばずに言えば、ややヤクザ的な色彩がないわけではなかったと感じます。ところが、そうしたマスコミに対して、政治家はさらにその上を行く存在だと痛感しました。
(深田)
確かにそうですね。
(樋口)
マスコミにもさまざまな問題はあります。しかし、政治家がそれを脅して口を封じるという行為は、想像を超えるほどの強引さです。私は、それを目の当たりにして、改めてその凄まじさを実感しました。
(深田)
私も、国会議員の政策を批判したところ、「法的措置を取る」と言われ、実際に刑事告訴されました。そこで私は逆に、「国会議員が政策批判を受けただけで法的措置を取るのは、国家公権力を乱用した脅迫ではないか」として、刑事告訴を行いました。その結果、私の主張が認められ、現在ではその国会議員も脅迫罪の容疑者となっています。
(樋口)
そこまで行動できる人は非常に稀です。深田さんだからこそできたことで、普通の人はその段階で脅され、潰されてしまうでしょう。
(深田)
その通りです。だから、そういう国にしてはいけないのです。国民一人一人が「自分には権利がある」と自覚することが大切です。言論の自由は、憲法によって守られているありがたい権利です。それを行使するのは国民の自由なのだと、胸を張って言ってほしいのです。
(樋口)
おっしゃる通りだと思います。
(深田)
ということで、今回は元裁判長の樋口英明先生に憲法についてお話を伺いました。ありがとうございました。