#409 中国軍と自衛隊の交流は笹川の陰謀? 元航空幕僚長が暴露するハニトラ接待の実態! 田母神俊雄氏×深田萌絵
(深田)
皆さん、こんにちは。政経プラットフォーム、プロデューサーの深田萌絵です。今回は、元航空幕僚長の田母神俊雄先生にお越しいただきました。先生よろしくお願いします。
笹川平和財団が行っている自衛隊と中国開放軍の交流事業について、最近、ネット上でも話題になっていて懸念する声が多く上がっているのですが、閣下はどのようにお考えでしょうか。
(田母神)
おそらく若手幹部の中国との交流を懸念しているのでしょうが、学校なども含め、そういった交流は結構やっています。
自衛隊の幹部は、大学卒業後すぐに幹部候補生教育があります。防衛大学出身であれば半年、一般の大学であれば1年間です。そして、30代の前半に昔の陸軍大学や海軍大学に相当する1年間の教育があり、40代の前半に統合幕僚学校や防衛研究所、陸海空自衛隊の幹部学校などで、1年間の幹部高級課程があります。つまり、20代、30代、40代の前半に、それぞれ1年間の集合教育のようなものがあるのです。
私は統合幕僚学校の学校長をやっていたのですが、その時の学生は大佐や中佐ですから、もう40代の前半なのですよね。彼らを連れて、中国の国防大学を訪問したことがありました。
(深田)
そのような際に、中国の解放軍に情報が盗まれるようなことはないのでしょうか。
(田母神)
それはないですね。その辺は分かって行動していますが、訪問先で中国側が我々を監視はしています。
滞在中に、ちょっといたずらするかということで、自衛隊ではタイムハックということをやるのです。タイムハックとは秒針を合わせるということです。何時、何分、何秒を合わせておいて、「いいか。明日の朝4時に、一斉にホテルのドアを開けるぞ。」と言い、泊っている部屋のドアを一斉に開けたのです。そうしたら、監視している兵隊が逃げていきましたから、やはり監視しているのだなと思いました。
(深田)
では、うかうか女性とは遊べないですか?
(田母神)
そのようなことはできませんね。中国が差し入れてくれた女性なら大丈夫かもしれませんが、おそらく後から脅しの種に使われるということでしょう。
(深田)
昔は、日本の中国駐在員の方が大企業のお偉いさんを連れていくと、ホテルに女性が送り込まれてくるという話がよくありましたよね。
(田母神)
そういうことはあるみたいですね。ですが、私の時はなかったので、中国側も相手をよく調べるのでしょう。私は、中国側に対して歴史論争をしたのですが、それをやった唯一の高官だったようです。
(深田)
どのような論争をするのですか?
(田母神)
私が統合幕僚学校の学校長の時に、団長として陸海空自衛隊の学生約20名を連れて中国を訪問したのです。3泊4日だったでしょうか。その際に、中国側のハン・チャンロンという人と面談の時間があったのです。彼は、当時の参謀長助理という立場にあった人で、日本でいう統合幕僚副長でしょうか。ナンバー2かナンバー3ぐらいのところにいる人だったと思います。
面談時間は30分で、私が右側に座り、彼が左側に座る。私の側に日本側が並び、反対側に中国側が並ぶ。そして、その周りを、銃を持った中国の兵隊が取り囲んでいるのです。普通の国ではそのようなことはおそらくないと思うのですが、威圧をしながらやるような感じでしたね。
そして、相好を崩して「ようこそいらっしゃいました」と言い、座った途端に、過去の不愉快な歴史をどう認識するかという話を始めたのですよ。彼は旧満州の生まれで、子供の頃から親や親戚から日本軍の残虐行為について散々聞かされていて、もう体に染みついていて到底忘れることができないというのです。それに続いて、日本軍の悪口をあれこれ並べるわけですよ。私も最初は黙って聞いていたのですが、30分の面談なのに10分ぐらいしても終わらないのです。「俺たちはお客さんで来たのに、何を言っているんだ!」と、だんだん聞いているうちに頭にきて、手を上げて、「私にも喋らせてくれませんか」といって話を遮って喋ったのですよ。
「あなたは、日本軍が残虐行為をしたというけれども、私はあなたの意見には全く賛成できない。あなたは満州生まれだからご存知だとは思いますが、満州は1932年にできて、その時の人口は3000万人だったのですよ。それが1945年、第2次世界大戦が終わる頃には、満州の人口は5000万人を超えていたのですよね。記録としてデータが残っているわけです。
たった14年で、2000万人以上も人口が増えたでしょう。毎年100万人ずつ以上も増えているわけでしょう。これをあなたはどう理解しますか。残虐行為ばかりでいつ殺されるかわからないという所に、人なんか集まってくるはずないんですよ。これだけ爆発的に人口が増えたのは、それは満州が豊かで治安が良かった。もう絶対的な歴史的証拠なんです。だから私は、あなたが言っている日本軍が残虐行為をしたとか、悪いことしたとかいうことには、全く賛同できない。」というようなことを言いました。
(深田)
なるほど。すごいですね。
実は、私の祖母が満州鉄道に勤めていたのです。家出をして、勝手に満州に行って就職したのですが、たしかに、治安が悪いなどという話は聞いたことがないです。
(田母神)
私も、満州の話を昔聞いていましたけれど、そんなに悪い話はありませんでした。
話は戻りますが、私がそう言うと、彼は目を白黒させていましたよ。日本人は絶対に文句を言わないと思っていたみたいなのですが、初めて日本人に文句言われたので驚いたのでしょう。そして、どう反応するのかなと思ったら、さすが中国です。返す言葉が振るっていましたよ。「歴史認識の違いを越えて、軍の交流を進めよう」と言っていました(笑)
(深田)
中国人は、そういうところが面白いですよね。反論してこないだろうなと思っていた時に言い返されると、急に態度を改めて「歴史を乗り越えて仲良くしましょうね」みたいなことを平気で言いますよね。
(田母神)
彼は昭和22年生まれで、私より1つ年上でしたね。
北京には自衛隊の陸海空の大佐の武官が3人いて、彼らも私とハン・チャンロン陸軍中将の面談の場で立会をしていたのですよ。我々は6月初めに行っていたのですが、その中の陸上自衛隊の武官が6月いっぱいで3年の任務が終わって、帰ってくる直前だったのですよね。その彼が言っていました。任期中、日本から政治家や各省庁の事務次官、局長が来て、中国と面談があると、私にハン・チャンロンが言ったのと同じことをいつも言うそうです。何十回、100回ぐらいかもしれない。その面談の場で文句を言ったのは、田母神統合幕僚学校長が初めてですと言っていました。
(深田)
文句を言ってくださって、ありがとうございます。
(田母神)
みんな、承って帰ってくるだけなのでしょうね。
私が文句を言った後は、色々ありました。私たちが北京についた晩に、同じくらいの人数を揃えて歓迎レセプションをやってくれるのです。私は国際的には空軍中将ですから、先方も陸軍中将以下が出てきてパーティーをやってくれました。そして、帰る前の晩に、今度は我々がパーティーを計画して中国側を呼ぶ。訪問国側を呼ぶというのも軍の恒例なのですが、4人しか来ないのです。我々を空港に出迎えた渉外係の大佐と彼の部下の少佐が1人、そして通訳の陸軍中尉が2名でした。私は中将なので、同レベルの人間が来ないということは、通常では国際儀礼上ありえないのですが、その他の人は、「突然用事ができて申し訳ないけど出席できません」と返してきたわけです。私が文句を言ったので来ないのでしょうが、中国はそういう意地悪をするのですよね。
我々は6月の初めに中国の国防大学を訪問していて、相互交流なので7月の初めに先方が私の統合幕僚学校を訪問することになっていたのですが、「来ない」と言ってきたのですよ。
それで、私も「文句言わなきゃよかったかな」と、小鳩のような胸を痛めるわけですよ(笑)
陸上自衛隊の一佐が教務課長だったのですが、彼が「中国国防大学が訪問を取りやめると言ってきました。どうしましょうか。」と言うので、「課長、申し訳ないけど東京にある中国大使館に行って2度と来るなって言ってこい」と言いました。そうすると、直前になって「来る」ということで来たのです。
私は、少し腹に据えかねているものがあったので、「いや、あなたたちは大人げないですな」と文句を言ったのです。「こっちが帰りに答礼のレセプションをやったら来ないし、帰ってきたら日本の訪問を取りやめると言ってきたり、色々嫌がらせしますな」とね。そうしたら、次の年1年間交流が途絶えました。統合幕僚学校は受け入れられないということでね。
1年おいて元には戻りましたけれど、そういうことを中国やるのです。日本の中で、「文句なんか言わないで、うまくやっとけばいいのだ」という意見の人も当然います。ですが、その後どうなったかというと、交流が再開され次の訪問団がまた統合幕僚学校から行くのですが、先方に飾られている訪問団の写真が更新されることなく、8年間に渡って私が訪問した時のままだったと、向こうの武官団から報告がありました。「田母神学校長の写真がまだあります」ということでね。
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