#567 松下政経塾の光と影。2人の首相を輩出も松下幸之助が「失敗」と嘆いた真実とは? 出井康博氏(2026.1.13)
(深田)
みなさん、こんにちは。政経プラットフォームプロデューサーの深田萌絵です。今回はジャーナリストの出井康博さんをお迎えしました。出井さん、本日はよろしくお願いいたします。
(出井)
よろしくお願いします。
(深田)
前回は「松下政経塾とは何か」についてお話をうかがいましたが、今回は、そこから輩出された二人の首相についてお話しいただければと思います。
(出井)
なぜ二人も首相を出せたのかと思います。松下政経塾は、前回お話ししたとおり1979年に設立されましたが、その後の約10年間は、ほとんど政治家を生み出していませんでした。1989年に松下幸之助氏が亡くなり、塾が存続の危機になります。応募者も激減し「おいおい、大丈夫か」となった時に神風が吹いたのです。
その神風とは1993年の新党ブームです。中心人物となったのが、元首相の細川護熙さんです。細川さんは元熊本県知事で、熊本お殿様の家柄です。祖父が近衛文麿で、公爵とかお殿様のものすごい家系です。
その細川さんが日本新党を結成し、まず1992年の参議院選挙で、自身と、現在東京都知事小池百合子さんが組んで、新党ブームを起こします。1992年の参議院選挙では少し議席を獲得し、翌1993年の衆議院選挙で大勝ちしました。その結果、単独政党ではなく、八つの政党が結集した非自民の細川連立政権が誕生します。これにより、自民党は結党後初めて政権の座を失うという大きな出来事となりました。
(深田)
当時はアメリカがビル・クリントン政権だったと思います。私は中学生ぐらいで、テレビを見ていて、日本にもスカーフやストールを身につけ、洗練された雰囲気の首相が現れたと感じました。少し洒落ていて「ちょい悪親父」風で、クリントンと並んでも遜色ない首相が、ようやく登場したという印象でした。それまではよぼよぼして「どぶ板選挙をしてきました」みたいな人だったので、洗練された人が出たと思って、私は感動したんですよ。
(出井)
もう人気だったわけですね。支持率は極めて高かったのですが、それがあっという間のわずか8か月ほどで退陣してしまいます。佐川事件(※)などいろいろな問題が重なり、崩壊したわけです。
この日本新党から松下政経塾出身者が一斉に政界へ進出し、国会議員になっていくわけです。それまでは、自民党の逢沢一郎さん一人だけでした。この人は、政経塾では珍しい政治家2世・3世であり、例外的な存在でしたが、新党ブームによって、一気に15人もの国会議員が誕生します。
この時は新党ブーム日本新党だけでなく、他の新党からも国会議員がでました。この時に当選したのが、立憲民主党代表の野田佳彦さんや高市早苗さんです。高市さんの場合、1992年の参議院選挙で地元奈良から自民党から出ようとしましたが、公認を得られず、無所属で立候補して落選しています。しかし翌1993年、再び無所属で参議院選挙に挑戦し、当選を果たしました。これも、自民党に対する不信感が高まり、新党や無所属候補が支持される空気が強まっていたことの表れです。
この流れは、2009年の民主党政権誕生時の政権交代選挙とよく似ています。1980年代後半、リクルート事件などをきっかけに自民党への不信が高まり、「自民党は限界だ」という空気が社会に広がりました。その結果、新党ブームが起こり、松下政経塾が一気に注目を浴びることになります。
私は著書『松下政経塾とは何か』でも書いていますが、実際に国会議員となった人々だけでなく、裏方として支えたスタッフにも政経塾出身者が多くいました。取材をしてみると、細川さんはスマートなのですが、新党結成の具体的な準備をほとんどしていなかったのです。
一方で、1980年代末から、松下政経塾の一部のメンバー、そこには野田氏なども含まれますが「新党を作ろう」と考えていた人々がいました。そこに細川さんが現れ「松下幸之助さんの意思を継ぎ、新党を立ち上げるので協力してほしい」と持ちかけたのです。さらに「これだけの人たちが賛同している」と示された名簿には、吉永小百合さんや山口百恵さんなど有名な人の名前が載っていたわけです。
(深田)
細川さんの好みの美女ばかりだったのですね(笑)。
(出井)
おそらく、吉永小百合さんなどは実際にはOKしていなかったと思いますが、それほど衝撃的な内容でした。当時の松下政経塾生は20代が中心で、田舎のお兄ちゃんだから、有名人の名前を見て驚いてしまったのです。「これはすごい」と感じ、多くの人が一斉にその流れに乗っていきました。
その結果、本人たちも気づかないうちに、勢いだけで事が進み、3日前までは普通のお兄ちゃんが、突然国会議員になるという事態が生じました。20代、30代前半で国会議員になる人が続出し、戸惑いと同時に高揚感も生まれ「これは一体何なのか」と思いながらも、次第に調子に乗ってしまう空気があったのです。
(深田)
選挙に対する認識も大きく変わりますよね。これまで「地盤が重要だ」と言われ、地元の集会に足を運び、地道な活動を積み重ねてきた人たちを押しのけて、ブームの波に乗った若者が一気に当選するわけですから。
(出井)
風だけで勝ったという状況です。本人たちも後に語っていますが、ほぼ完全に風だけで大勝した選挙でした。非常に恐ろしいことだと思います。しかし、深田さんもご存じのとおり、選挙というものは時にこうした現象を生み出してしまうのです。
(深田)
自民党に対する失望感が極限まで高まり「もう何でもいいから変えてほしい」という心理が広がると、人々は溺れる者が藁をつかむように、その藁に投票してしまう。そういうことですね。
(出井)
おっしゃるとおりですね。中学生だった深田さんの「細川さんはかっこいい」という、そのぐらいの感覚で支持が集まっていた面もあったと思います。そのレベルの熱狂で勝利してしまったことが、結果的に大きな問題を引き起こし、政権はわずか8か月ほどで崩壊してしまいました。
その後、松下政経塾出身者たちも皆、苦労することになります。選挙に落選したり、党を転々としたりと、最終的には散り散りになっていったのです。私は、新党ブームこそが松下政経塾にとって「終わりの始まり」だったと、著書の結論で書いています。どういうことかと言うと、前回の収録では、私自身、松下幸之助をやや擁護するような話をしましたが、松下幸之助自身にも、良し悪しは別として、それなりの理想や思いがあったのは確かです。
しかし、新党ブームを経験したことで、政経塾の雰囲気は一変します。「何だかんだ言っても、選挙に勝ってなんぼ」「偉そうなことを言っても、選挙に勝たなければ始まらない」という空気が、一気に支配的になっていったのです。新党ブームでは、細川護熙氏という個人の人気に乗る形で勝利しましたが「どうすれば選挙に勝てるのか」という方向へと、思考をひたすら向かわせることになりました。
その後、民主党政権が誕生する流れの中でも、「選挙に勝つにはどうすればいいのか」「目立ってなんぼ」「世の中の注目を集めてなんぼ」といった考え方が、次第に強まっていきます。その結果、この頃から政経塾に対して「軽い奴らだな」「パフォーマンス系の人間が増えた」といった評価や批判が聞かれるようになりました。そもそも20代、30代という若い世代が、過度にそうした方向へ傾くのは逆効果でもあったのですが「とにかく目立たなければ選挙には勝てない」という雰囲気が、どうしても広がってしまったのです。
(深田)
今の政治を見ていると、やたらと自己アピールばかりが目立ち、実務能力があまり伴っていないように見える政治家が増えた背景には、松下政経塾の影響も一部あったのではないかと感じることがあります。
(出井)
まさに、そうした側面はあると思います。松下幸之助は、政経塾を通じて、地盤、看板、カバンを持たない人々にチャンスを与えました。その結果、実際に国会議員となった人たちがいるのも事実です。しかし、今、深田さんがおっしゃった点は弊害の一つと言えるでしょう。
(深田)
松下幸之助さんの気持ち自体は、私にも理解できます。戦後、GHQによって公職追放を受け、その後、社員たちの運動によって経営の場に復帰したという経験をされています。自国の政治家によって切り捨てられたらどうなるのかわからないという不安を、身をもって体験されたわけです。その中で、自分には使い切れないほどのお金があり「世襲議員だけではいけない」「新しいものを作りたい」という思いは非常によく分かります。
自分も、これまでに「言論人養成講座」を何度か開いたことがありますが、なかなかうまくいかないのです。私が言論活動を行っている理由は、さまざまな経験や思いがありますが、それが表に出る形が、このYouTube番組です。しかし、そうした根本的な思いを持たない人ほど、動画の作り方や、どうすれば注目を集められるかといった技術論に目が向きがちになります。
そういう意味では、松下幸之助さんも「なぜ自分はこれをやるのか」という根源的な問い、つまり哲学的な部分を、もっと突き詰める必要があったのではないかと感じます。
(出井)
松下幸之助という人物は、小学校も三年までしか通っていない一方で、いわば動物的とも言える鋭い勘を持った経営者だと評されてきました。政経塾だけを見れば、結果として二人の総理大臣を輩出しているわけですから、勘は確かだったとも言えます。
(深田)
確かに、その点はそうですね。
(出井)
実際、何もないところから松下電機、現在のパナソニックを築き上げたのですから、天才的な経営者であったことは間違いありません。ただし、問題はその先です。では、彼はどのような国を作ろうとしていたのかということになります。
例えば、松下幸之助の思想として有名なのが「水道哲学」です。水道は料金こそかかりますが、蛇口をひねれば水がふんだんに使えます。同じように、松下電機が大量に製品を生産すれば、価格は下がり、良い製品が安く広く行き渡る。そうなれば、国民生活にとって大きな利益になる、という考え方です。
また「無税国家論」という構想もありました。国の年間予算の一部を積み立てていけば、100年後には利子だけで国家運営が可能になり、無税国家が実現できるのではないか、という発想です。現実性は別としても、ある意味独創的で興味深い構想であったことは確かです。
(深田)
そうした流れの中で、松下政経塾出身の野田さんが消費税増税を行いましたよね。
(出井)
結果としては、財務省の言いなりになってしまった、という評価が出てくるわけです。その意味では、政経塾で明治維新をやろうとしたことはいいのかもしれません。しかし、その先にどのような国を作るのかというのがなかった可能性があります。
(深田)
やはり、グランドデザインを描き、明確なゴールを設定しなければ、そこに向かって進むことはできませんよね。
(出井)
その点については、政経塾関係者の発言や、松下幸之助の著作の中にもよく出てきますが、「国家百年の計」という言葉があります。これは、短期的な視点ではなく、長期的な展望に立って国家を構想するという、非常に重く、大きな理念です。ただし、現実には、先ほど申し上げたように「目先の選挙」が最優先になってしまう。「選挙に勝たなければ何もできない」という意識が、どうしても前面に出てくるのです。
結局のところ、「国家百年の計」は確かに重要だが、そのためにもまずは選挙に勝ち、権力を握らなければならない、という発想に行き着きます。そこには、手段が目的へとすり替わっていくという、どの分野にも共通する、非常に大きく、そして永遠とも言えるテーマが横たわっています。
(深田)
高市さんについても、おそらく1年前には消費税減税を本気で考えておられたのだと思います。税負担が少しでも軽くなれば、庶民の生活が楽になるということは、十分に理解されていたはずです。しかし「選挙に勝たなければならない」「総裁選で勝たなければ意味がない」「連立で過半を取らないと何も実現できない」といった現実の制約の中で、妥協に妥協を重ねることになった。その結果、消費税ゼロという選択肢は消え、主婦の年金負担を含む制度変更が検討され、さらに議員定数削減を通じて、結果的に独裁化を望む維新の路線に近づいて、悪化する方向へ引きずられるような流れに向かってしまっているように見えます。
(出井)
おっしゃるとおりで、非常に難しい問題です。私は高市さんを擁護するつもりはありませんが、現在の議院内閣制という制度の下では、個人がどのような理念を持っていたとしても、それをそのまま実行に移すのは容易ではありません。これは民主主義の長所でもあり、同時に限界でもあります。大統領制ではありませんから、その点はどうしても制約が大きくなります。
(深田)
そうですね。ただ、そこをうまくまとめきれないことが、結果として、意図しない方向に国が進んでいくきっかけになってしまう、という側面もあるように感じます。
(出井)
まさにそのとおりです。では、そもそも何のために政界で出世し、総理大臣を目指すのか、という問いに行き着きます。松下政経塾の理念に立ち返ると、以前もお話ししましたが、坂本龍馬を出したかったのです。既存の枠組みを壊し、誰にでも務まる総理ではなく、革命的な変化を起こす本物の一人を生み出したかったのだと思います。もしそうであるならば、総理大臣になった時点で、後先を考えず、自分の信じる道を貫く覚悟が求められたはずです。
しかし、それが野田さんにできたのかと言えば、できなかったのでしょう。高市さんについても、本来は後先を考えず、自身の信念に基づいて行動すべきだという考え方も成り立ちますが、現実には、それを実行するのは極めて難しいですね。
(深田)
そうですね。松下政経塾、そして松下幸之助さんの構想には、戦後の対米従属体制を何とか変えたい、覆したいという思いが、やはりあったのではないかと感じています。そのような問題意識が、松下政経塾出身者の発言や姿勢の中に、時折、見え隠れすることは確かにあります。
(出井)
政経塾という組織には「よく分からない集団」「影の秘密結社」「日本版ディープステート」のようなイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし、実際のところ、内部は決して一枚岩ではありません。強い結束力があるどころか、むしろ互いに足を引っ張り合っている側面すらあります。例えば、民主党政権時代に、野田佳彦さんと前原誠司さんが対立したことなどは、その象徴的な事例でしょう。
松下幸之助自身は、皆が同じ方向を向いて進むことを望んでいたのだと思いますが、現実はそうではありませんでした。「対米従属は問題だ」と考える人もいれば、「アメリカと協調した方がよい」と考える人もいる。「中国と関係を深めるべきだ」と考える人もいる。それぞれの立場や考えは、完全にばらばらです。多くの人が「どうすれば選挙に勝てるか」「どうすれば出世できるか」という観点で動くようになり、価値観は分散していきました。
(深田)
松下政経塾が、政治活動のための資金や肩書きを得る手段として利用され、出世競争の道具になってしまった側面も否定できません。良くも悪くも、向上心の強い人材が集まり、そのエネルギーが競争へと向かっていった。それが、現在の政治の世界の一つの現実だと思います。
(出井)
まさに「野望の王国」と言うべきか、「成り上がり物語」、あるいは「出世すごろく」のような状態になってしまった、ということなのだと思います。その結果として、二人の総理大臣を輩出した、という事実は確かにありますが、それが本来の目的だったのかと言えば、疑問は残ります。
もし天国の松下幸之助が、亡くなる際に「政経塾は失敗だった」と語ったとするならば、それは「日本は少しも良くなっていないではないか」「自分が問い続けてきた『崩れゆく日本をいかにして救うか』という問題に対して、状況はむしろ悪化している」「このために政経塾を作ったのではない」「自分は、あなたたちの出世のためにこれを作ったのではない」と、そう語っているのではないかと思います。
実際に政経塾出身者と話をしても、「松下幸之助の思いに応えられていない」という言葉を耳にすることは少なくありません。であるならば、次に問われるのは、「では、これからどうするのか」という点でしょう。
(深田)
最後は少し重い話題になりましたが、今回はジャーナリストの出井康博さんに、松下政経塾から二人の総理大臣が輩出された理由について、詳しくお話をうかがいました。本日はありがとうございました。
(出井)
ありがとうございました。





