#551 与野党を支配する松下政経塾の正体!高市早苗や野田佳彦を輩出したエリート集団の裏側 出井康博氏
(深田)
皆さん、こんにちは。政経プラットフォームプロデューサーの深田萌絵です。今回は、ジャーナリストの出井康博さんにお越しいただきました。出井さん、よろしくお願いします。
(出井)
よろしくお願いいたします。
(深田)
松下政経塾出身の高市早苗さんが首相になられました。日本初の女性首相を輩出したのが松下政経塾ということになるのですけれども、松下政経塾とはどういう存在なのか教えていただきたいと思います。
(出井)
高市さんも松下政経塾出身で、野党の立憲民主党の野田佳彦代表(元首相 )、最近まで日本維新の会の共同代表だった前原誠司さんも同塾出身で、与党から野党まで松下政経塾の人たちばかりがトップになっている状況です。これは何か?ということですよね。
(深田)
なぜそんなに松下政経塾出身の政治家がトップを張れるのでしょうか?
(出井)
その前に松下政経塾とは何なのかお話ししたいと思います。今、言ったように、首相の高市さんを始め国会議員を33人出しているのです。他にも都道府県知事で3名、地方議員やその他市長などもたくさん輩出しているのですけれども、松下政経塾ができたのが1979年です。今のパナソニックを作った松下幸之助さんが、政治家を養成していく塾で作って40数年たつわけです。
私が松下政経塾の取材を始めたのが1999年で、今から25年以上前になりますけれども、松下政経塾ができてちょうど20年ぐらいたった頃です。その頃は、政治家はそこそこ出ていたのですけれども、今ほど注目は浴びていなかった。まだまだ若手で、20~30代の政治家が沢山いたのです。これはやがて総理大臣も出ていくだろうと見越して取材を始めました。実際に野田さんが総理大臣になったのが2011年です。民主党政権の最後の総理大臣でしたけれど、そこから今に至るということです。
深田さんの質問に戻ると、なぜこんなにトップを張れるのかという話ですね。今は多少変わってきていますけれども、昔は年功序列ではないのですけれども、ある程度 当選を重ねていかないと政党の中では出世できなかった。当時若かった人たちで、野田さんは60代後半で、高市さんも60代になり、それぞれの政党の中で出世してきて今に至るということだと思うのです。
(深田)
そうですよね。なぜ彼らがそんなに力をつけたのか、そこは何か要因があるのですか?
(出井)
松下政経塾の国会議員だけで33人いて、誰でも総理大臣になれるわけではない中で、高市さんがなった。自民党は一番大きな政党で、その中で高市さんが推された。この前、自民党の総裁選がありましたけれど、周りの人たちが推してくれないと総理大臣にはなれないわけです。野田さんもそうですけれど、そういう意味では実力が党内で認められたということだと思います。
(深田)
選挙スタイルなどにも特徴があるのですか?
(出井)
政治家になるには地盤、看板、カバンの「三バン」が必要と言われています。松下幸之助がなぜ政経塾を使ったのかと言うとこの三バンがない、政治家の2世、3世という政治家の家系ではない若者に政治への道を開くというのが、ひとつの狙いであったのです。
そういう人たちが選挙をやろうとすると、地盤がないところでの選挙になるわけです。今では選挙のやり方は全然変わって、例えばインターネットを使うなど、地盤や看板、お金がなくても政治家、国会議員にもなれる時代になりました。しかし、1970~80年代は今とは全然違っていて、政治家2世や官僚出身、秘書上がりなど、そういう人しかなれなかった。周りに政治家とか政党などとコネがないとなれなかったわけです。
そんな中で政経塾の人たちはある意味、徒手空拳というか、とにかく街頭にたってひたすら「お願いします」ということをやる。その象徴が立憲民主党の野田佳彦さんだと思うのです。よく野田さんが「自分は40年間、ずっと船橋の駅の前に立って街頭演説を続けている」と話をします。それに象徴されるようなひたすら「頑張っています!」と訴えるのが政経塾の選挙スタイルということになると思います。
(深田)
松下政経塾は日本を悪化させているという批判をされている方もいらっしゃいますが、その辺りはどうなのですか?
(出井)
功罪はあると思うのです。松下政経塾とは何をしているのかというところからお話ししようと思います。松下政経塾の在籍期間は4年なのです。その間に給料をもらって勉強ができる。勉強といっても、別にカリキュラムがあるわけではなくて、松下幸之助の言葉でいうと「自修自得」自分で修めて自分で得るということです。
初期にはあまりにもカリキュラムがないから皆不安になって「もう少しカリキュラムを作ってください」というと「君が塾長になったつもりで考えろ」と言われました。別に経済学の勉強をしているとか、政治家になるための教科書があって勉強するところではなくて、4年間(当初は5年)自分である意味好きなことができるところではあるのです。
(深田)
お小遣いをもらいながら好きなことをやっていいということは、塾じゃないですよね。
(出井)
塾じゃないと言えば塾じゃないのですよ。松下幸之助としては、道場のようなイメージでした。だから何をしているところなのか、よく分からないなというところもあると思う。
今でこそ松下政経塾から総理大臣も輩出して凄く有名な組織になりました。しかし、1980年に第一期生が入って、第一期生のひとりが野田さんですけれど、その頃は松下幸之助の名前はあるけれど、何かよく分からないところだったわけです。4年、5年いても政治家になれる保証は何もないのです。
今は大学を出てもフリーターやぷらぷらすることが普通の時代になりましたが、80年代、90年代の頃は、大学を出たら就職をして同じ会社にずっといるというような時代でした。政経塾にいる人たちは学歴エリートで、東京大学や優秀な大学を出ている人たちが多く、そういう人たちが就職もせず、いきなり松下政経塾に入って、4年、5年たっても、政治家の候補者になれる保証もないわけです。
今は様々な政党ができ、自民党も公募で候補者を募集するような時代ですけれど、当時は55年体制と言われ、与党は自民党、野党は社会党という時代でした。松下孝之助は保守の人だから、政党を選ぶとしたら自民党なのだけれど、自民党の候補者に絶対になれる時代ではなかったわけです。
松下政経塾を出たといっても何の保証もない時代に飛び込んでいった人たちというのは、ある意味、度胸があったわけです。野田さんは1期生、高市さんは5期生です。5期生でも政治家などほとんど出ていない時代ですから、その時代に高市さんも飛び込んで行って、何十年か経って結果的に総理大臣になったのです。
松下政経塾が悪くしたなど、いろいろ見方があるのですけれど、リスクを恐れずに“エイヤー”で飛び込んで行ったということは、それなりに認めてもいいのかなと思います。
(深田)
今の時代、政治家を目指している人たち、政治活動をしている人たちは皆貧乏なのですよね。貧乏で地盤がない、かばんもないというところから、政治活動を始めて、なれたとしても市議会議員レベルなのですよ。
松下幸之助さんが世襲議員ばかりのところを打破するという意味で、松下政経塾を作り、有象無象を集めてお金を与えた。そういう意味では、新しい風が吹き始めたかなというところはあるのです。
ただ、松下政経塾の経は、経済ではなく経営なのです。私から見ると経済のことを考えずに企業のロビイスト、つまり経営ですよね。企業のロビイスト的な政治家が、逆に増えてしまったかな?というところがあるのです。
(出井)
なるほど、それは鋭いご指摘です。政経塾の人たちに共通しているのは、みんな選挙に強くないのです。世襲ではなく、もともとの地盤がないので、やはり選挙に弱い。選挙に通った政治家でなければ偉そうなことをいっても何もできないわけで、そんな中で、どうしても変な方に結びついていってしまう人もいるのはあるのでしょうね。
(深田)
松下幸之助さんは、自分で新党を作りたいということは考えていらっしゃったのですか?
(出井)
そうなのです。松下幸之助という人は、歴史上の人物みたいになっているかもしれないですけれど、20代に大阪で区会議員もやったことがあるのです。これは口癖なのですけれど「右手にそろばん、左手に政治」と言っていたような人で、非常に政治には興味がある人だったのです。戦後にPHP研究所を作って政策提言をしていくなど、本当は松下政経塾を作って、新党も作ろうとしていたのです。
これはあまり知られていない話ですけれども、今はいろいろな保守の政党も出てきましたが、1970年代の終わり頃は保守の政党は自民党しかなく、そこに新自由クラブというのもできたのです。けれども新自由クラブが無くなり、保守の政党を自分でもうひとつ作って、保守2党論で政権交代していくイメージで、そこに政経塾で養成している人たちを入れていこうという考えもあった。
何しろ松下政経塾を作った時には、松下幸之助は84歳です。10年後に94歳で亡くなるわけですが、政経塾を作った後に政党も作ろうと動いていくのですが、もう息切れをしてしまって結局は作れなかったのです。
(深田)
なるほど。松下幸之助さん自身も保守だったのですか?
(出井)
そうですね。保守の方で、保守2党論の考えです。小難しい話になりますけれども、1970年代は田中角栄さんの事件があったり、オイルショックがあったりと、失業者が200万人で日本がガタガタになっていた時代でした。自民党の政治も限界なのではないかと言われていた時に、自民党に変わる保守の政党を作ろうとした。それが後に新党ブームに繋がっていくわけです。
(深田)
松下政経塾の人たちは、総じて親中です。対中強硬に見せかけた親中の人も結構いるのですが、1978年の時点で松下幸之助さんが鄧小平といろいろな約束をしているではないですか。その中に政治の問題も入っていたのではないのでしょうか?
(出井)
その辺りは、何とも言えませんが、松下幸之助は確かに中国と親しくて、中国にも行って鄧小平さんとも親しくしていたということはあるのです。深田さんがおっしゃることがよく分かっていて、今(松下政経塾出身の)国会議員が33名いるのですが、政経塾の出身者は保守といいながら、一番多いのは立憲民主党なのです。立憲民主党が16名、自民党に11名、維新が4名、国民1名、無所属に1名とバラバラに分かれています。要するに、時が経つにつれて、松下幸之助の意志とは別に、松下政経塾という名前、松下幸之助というブランドを利用して自分の立身出世のために使っていく方向になっていくわけです。
(深田)
応募して試験に通ったら年間いくらもらえるのですか?
(出井)
今は年間300万~500万です。もともとは松下電器、今のパナソニックの初任給に合わせていたわけです。
(深田)
働かずして給料をもらえる。お手軽感はありますよね。その割に授業はないし、創業者の思いを聞く機会もなくて、精神的な教育を全くできないままお金をばら撒いてしまった。それをチャンスだと思って有象無象が集まってきたのですね。
(出井)
そこを利用して自分が出世していく。例えば、松下政経塾という名前を使って、ある政治家、国会議員に近付いて、秘書になって候補者にしてもらおうという人たちが途中から出てきたということです。
(深田)
昔、菅さんと懇意にされていた銀座のフィクサーがいるのです。そこに来ていた人たちがことごとく松下政経塾出身の政治家ばかりだったので「ロビイングしかしていないのか」と思ったのです。
(出井)
自分たちが、やはり持たざるものの弱さというか、政治ごっこになってしまうというところがあります。
松下政経塾という名前からして吉田松陰の松下村塾をイメージしているのです。松下幸之助が何をやりたかったのかというと、明治維新です。自分が松下村塾を作った吉田松陰になって、そこから維新の志士を生み出すのだというイメージを持っていたのです。
「数ではないのだ、たった一人坂本龍馬を生み出したいのだ」という思いだったのだけれど、これは見ようによっては大いなる勘違いというかアナクロニズム(時代錯誤)ではないでしょうか。司馬遼太郎さんという作家がいて、坂本龍馬や明治維新を非常に美化されていて、司馬史観というか「明治の維新は良かったのだ」という見方をしています。今も、日本維新の会などの政党もありますけれども、維新幻想みたいなものがばら撒かれていて、彼らはそこを勘違いしているのではないでしょうか。
(深田)
明治維新絶賛論は大いにありますね。松下さんはそのイメージを持って松下政経塾を始めたのですか?
(出井)
そうですね。革命を起こそうとしたのです。革命とは何なのかというところですけれども明治維新のファンなのです。ある種のアナクロニズムというか、見ようによって非常に暑苦しいです。
(深田)
私は思うのですけれど、起業家とか自分で何かを起こす人は、そういう組織に所属しないタイプの人ですよね。
(出井)
まあ、そうなのですよ。そこは非常に鋭いところで坂本龍馬はそもそも松下村塾じゃないわけです。そこからして矛盾しており、そこまでは深く考えてなかったのでしょう。
私は、松下幸之助という人がやはり凄いなと思うのは、よくこんなことをやったと思うのです。なぜなら、今の企業家でも経済人でも、例えば、自民党に対抗する政党を作るために、自分の私財を何百億か出して政治家を養成する塾を作って新党作ろうという人はいないじゃないですか。
(深田)
そうですよね。いないですよね。
(出井)
それに松下電器、今のパナソニックですけれども、大反対だったのです。
(深田)
そうなのですか。
(出井)
松下幸之助という人は、変わった人、ちょっとおかしな人ではあったわけだけれど、リスクを負ってやったというところは、私のような取材者としては面白い人なのだろうなと思ってしまうのです。
(深田)
ところが晩年、彼は「自分の人生の最大の失敗は松下政経塾だった」と言い残して亡くなられているのは皮肉なものですね。
(出井)
そうですね。
(深田)
今回はジャーナリストの出井康彦さんに「松下政経塾とは何か?」というテーマでお話をいただきました。先生どうもありがとうございました。
(出井)
ありがとうございました。





