#366 東日本大震災の前日に「トモダチ作戦」誕生の秘話。 ロバート・D・エルドリッヂ⽒×深⽥萌絵

(深田)

皆さん、こんにちは。政経プラットフォームITビジネスアナリストの深田萌絵です。

今回は、元アメリカ海兵隊員であるロバート・D・エルドリッヂさんにご登場いただきました。

エルドリッヂさん、本日はどうぞよろしくお願いいたします。

先日、私の番組をご覧くださったとうかがいました。特に、さとうみつろうさんとの回に共感されたと伺いましたが、印象的な点があったのでしょうか。

(エルドリッヂ)

実は、私の妻が深田さんの大ファンでして、番組を共有してくれたのです。妻は信仰心が厚く、さとうさんとの対談に非常に感銘を受けたようでした。その流れで、私も番組を拝見したのですが、その中で深田さんと私には共通点があると感じました。それは、東日本大震災の前日の行動に関することです。

(深田)

何か特別な出来事があったのですか?

(エルドリッヂ)

はい。まずは、そのときのお話をまだご存じない視聴者の方のために、簡単にご説明いただけますか。

(深田)

承知しました。私は3月6日に車を運転しながら山道を走っていたのですが、突然、あたりが真っ暗になったのです。当時、私はまだIT企業を立ち上げておらず、まったく別の生活をしていましたが、そのとき突然「IT企業を始める」という未来の情景が目の前に現れたのです。そしてその直後に夢のような状態から覚めました。

白昼夢から覚めたとき「過去のことを知りたければ、伊勢神宮へ来い」という声が、後方から聞こえてきたのです。そのときは不思議で、少し気味が悪いと感じましたが、友人から「そういうときは行った方がいい」と言われました。私は神社にお参りするような性格ではなく、信仰心も特にないのですが、何かの縁かもしれないと思い、伊勢神宮へ向かうことにしました。そして、ちょうど伊勢神宮に着いたのが3月10日でした。参拝をしたその夜、東京で地震が発生する光景が見えたのです。「これはまずい、もし本当に地震が起きたらどうしよう」と不安になり、私は怖がりな性格もあって、そのまま大阪の実家に戻りました。すると、翌日の3月11日、実際に東日本大震災が発生したのです。

(エルドリッヂ)

私も同じ3月10日に、伊勢神宮ではありませんが、沖縄におりました。当時、私は在日米海兵隊の政務外交部の次長として勤務しており、その後に在日米軍が実施した「トモダチ作戦」の立案にも関わりました。この作戦の基礎となった提言書を、私は2006年に大阪大学勤務時にまとめており、それを2011年3月10日に首相官邸へ提出しました。

(深田)

「トモダチ作戦」の基礎になる文書を、震災の前日に提出されたのですね。

(エルドリッヂ)

はい、まさにそのタイミングで提出しました。

(深田)

その文書が、すぐに「トモダチ作戦」につながったのでしょうか。そもそも「トモダチ作戦」についてご存じない方のために、簡単にご説明いただけますか。

(エルドリッヂ)

東日本大震災の発生後、在日米軍は4つの軍が連携し、自衛隊と統合した形で救援活動を行いました。実際には自衛隊の傘下に入り、ともに行動していたのです。この対応は、日本政府が震災発生当日の夜から翌12日未明にかけてアメリカ政府に要請し、それを受けて米政府が出動の許可を出したことで実現しました。

(深田)

そのような背景があったのですね。

(エルドリッヂ)

私は沖縄で地震のニュースを見たとき、「この規模であれば、いずれ支援要請が来る」と判断し、地震発生の十数分後には危機管理室を立ち上げました。具体的には、2つの管理室を設けて対応にあたりました。

(深田)

そんなに早くから動かれていたのですね。

(エルドリッヂ)

私が所属していた海兵隊では、任務に応じて2つの組織に分かれていました。ひとつは運用部隊、すなわち実際に現地へ展開する部隊。もうひとつは、その部隊を支える基地側の部隊です。後者には施設や設備、兵站、軍則などが必要であり、それらの管理を担うチームと、実動部隊の作戦立案を担うチームの2系統で構成されていました。日本政府とも連携しながら、この体制で救援活動を展開し、活動は3月11日から4月中旬まで続きました。

その活動の根拠となる提案文書を、私は3月10日に官邸へ提出していたのですが、残念ながらその翌日に、それを実行に移さなければならない状況が現実となってしまったのです。

(深田)

驚くほどのタイミングですね。東日本大震災が起きる前日に、その文書を「今日、提出しよう」と思われたのには、何か特別な理由があったのでしょうか?

(エルドリッヂ)

予見していたとは申し上げられませんが、そうした感覚を持つことは時にあります。

実際には、当時の報道動向を見ながら、その週の行動を決めていました。具体的には、当時の菅総理大臣が5月、つまり2か月後に訪米し、ワシントンでオバマ大統領と会談する予定であると報じられていたのです。

しかし、総理が訪米しても、明確な議題や成果がなければ意味を持ちません。普天間基地問題は存在しますが、それは日本政府と沖縄県との間の問題であり、米国政府が直接関与すべき事案ではありません。そのため、仮に菅総理が訪米しても、鳩山元総理のように「トラスト・ミー」といった曖昧な表現を繰り返すだけでは成果にはつながらないと考えました。そこで私は、訪米の機会に具体的な成果を生み出すべきであると考え、個人として提案を行いました。

これはアメリカ政府からの公式な提案ではなく、一研究者である私、エルドリッヂ個人の提案でした。

その提言書には、「日米の大災害における相互支援協定」の創設が含まれていました。これは、2006年3月に私が大阪大学に在職していた際に発表したもので、現在もインターネットで閲覧可能です。当時の日本の民主党政権は、より対等な日米同盟の構築を目指していましたが、それは容易には実現しない状況でした。だからこそ、まずは人道支援を軸とした協力関係、すなわち相互支援の枠組みを構築することが重要であると私は考えました。

この協定の内容は、たとえばアメリカで大規模な災害が発生した場合に、日本の自衛隊が人道支援のために派遣されることを可能にするものです。具体的には、2005年8月から9月にかけて発生したハリケーン「カトリーナ」がアメリカに甚大な被害を与えたことが背景にあります。

(深田)

あの有名なハリケーン「カトリーナ」ですね。

(エルドリッヂ)

そうです。当時のブッシュ政権の対応は決して適切とは言えず、海外への支援要請も行われませんでした。私はその状況を問題視し、半年間をかけて政策提言をまとめました。そして、「日本で災害が起きた際には、日本政府が在日米軍に支援を要請できる体制を整えるべきだ」と考えたのです。そうすることで、事前から顔の見える関係を築き、円滑な協力が可能になると考えました。

たとえば、どの自治体に派遣するのか、地域別の対応にするのか、自衛隊との合同対応にするのかなど、さまざまな支援の形が想定されます。日ごろから災害の恐れがある地域と交流を深めておくことで、実際の災害時に住民の皆さんが混乱することなく、迅速に協力体制を構築できます。特に被害が想定される地域として、高知県、静岡県、和歌山県、三重県を挙げ、これらの地域とは優先的に協力関係を構築すべきであると提案しました。

この提言を官邸に送付しましたが、直後に返答はありませんでした。そして残念ながら、その翌日、東日本大震災が発生したのです。

さらにその3月12日、私は東北への派遣を予定しており、その準備を進めていました。当時私は沖縄に駐在しており、2年間、基地問題の専門家および沖縄の歴史研究者として活動していました。いま振り返ると、私が大阪大学を辞して沖縄へ赴任したこと自体が、もしかすると救援活動への準備だったのかもしれません。3月12日に東北への派遣準備を進めながら、そう思ったのです。

(深田)

なんだかとても胸を打たれるお話ですね。

(エルドリッヂ)

この話は、私の著書『オキナワ論』『トモダチ作戦』『次の大震災に備えるために』の3冊に詳しく記しています。

(深田)

なるほど。私の3月10日の伊勢神宮での体験とも、どこか重なる部分があるように思います。

(エルドリッヂ)

私もそう感じました。やはり、何か見えない力が働いていたのかもしれません。

(深田)

大震災の前には、不思議な体験をする方が多かったと聞きます。偶然が重なり合って、「日本を救う」という流れが自然に形作られていったのかもしれませんね。

(エルドリッヂ)

補足になりますが、「トモダチ作戦」が日米協力による初めての救援活動だと考えている方も多いかもしれません。しかし、実際には戦後、少なくとも4回、在日米軍(当時は占領軍)による救援活動が行われています。ただし、そうした記録は残されておらず、長い年月の中で忘れ去られています。

たとえば、1回目は1946年(昭和21年)12月に発生した昭和南海地震で、関西地域が大きな被害を受けました。当時は旧日本軍がすでに解体されており、自衛隊もまだ存在していなかったため、占領軍が自治体と協力して救援活動を行いました。

2回目は1948年の福井地震です。このときも自衛隊はまだ存在せず、占領軍が支援活動を担いました。マッカーサー元帥の判断は的確で、福井は繊維などの重要な産業拠点であったため、復興が日本全体の経済にとって非常に重要でした。結果として福井の復興は非常に迅速に進みました。

3回目は1959年(昭和34年)の伊勢湾台風です。当時、自衛隊は発足していたものの、陸・海・空の連携はまだ不十分であり、統合的な対応は難しい状況でした。そのため、在日米軍の支援が必要とされたのです。

4回目は1964年(昭和39年)の新潟地震でした。新潟はエネルギー供給の拠点であり、高度経済成長にとって重要な地域であったため、米軍の救援活動が行われました。

その後は阪神・淡路大震災まで、国内で大規模な自然災害は発生しませんでした。そのため、こうした日米連携の記憶は人々の間で風化してしまったのです。もちろん、自衛隊の能力が大きく向上したことも事実ですが、東日本大震災における日米の本格的な協力は、実に約50年ぶりの出来事でした。「初めて」ではなかったものの、歴史的な記憶としてはすでに忘れ去られていたのです。

(深田)

そうした事実は、報道ではほとんど取り上げられていないのですね。

(エルドリッヂ)

これは、よほど丁寧に取材しないと分からないことです。

私はこの内容を、消防関係の専門誌『近代消防』にて2018年に連載として寄稿しました。インターネット検索をすれば、その記事は見つかると思います。ただし、文章として記録は残っていても、一般的なニュースなどでは報じられていません。

(深田)

それは本来、日本国民として知っておくべき重要な事実だと思いますが、意外と知られていないのですね。「トモダチ作戦」にしても、その中身まで理解している方は多くない印象です。このような事柄は、もっと互いに共有し、広めていく必要があると感じます。

(エルドリッヂ)

災害対応には多くの教訓があります。過去の事例を学ぶことは大切ですが、それに囚われすぎず、柔軟に考えることも同時に必要です。というのも、「想定外」は必ず起こるからです。ですから、「想定外をなくす」ためにも、あらゆる事態を想定し、すべての可能性に備えておくべきなのです。リスクシナリオを多様に準備することが、危機管理の要諦だと考えています。

例えば、関東大震災で最も多かった死因は火災、阪神・淡路大震災では建物倒壊、東日本大震災では津波でした。それでは、熊本地震や能登半島地震で最も多かった死因は何だと思いますか?

(深田)

なんでしょうか、熊本、能登半島……。

(エルドリッヂ)

実は、「自殺」だったのです。いわゆる「震災関連死」に該当します。身体的または精神的な病を背景とした自死が最も多かったのです。

(深田)

なるほど……確かに、今の日本を見ていると、能登半島に対する政府の対応は無関心に映ることがあります。そうした光景に触れると、絶望を感じる人も少なくないのではないでしょうか。

(エルドリッヂ)

私自身、阪神・淡路大震災の際は神戸大学の学生であり、そのときの経験があります。あの震災では、関連死が全体の死者のうち14%を占めていました。東日本大震災では17%、熊本地震では実に80%に達しました。能登半島でも、同様の水準に近づくと予想されます。

こうした話をする理由は、それが「本人の問題」ではなく、「社会の問題」だからです。社会が適切な支援を提供しなかったために起きたことであり、社会的責任が問われるべきだと考えています。

今後予想される南海トラフ地震、東京直下型地震、東南海地震などにおいて、私が特に懸念しているのは、次の4点です。すなわち、関東大震災における火災、阪神・淡路大震災での倒壊、東日本大震災における津波、そして震災後に生きる意味を失った人々による自殺です。次の大震災では、これら4つすべてが同時に発生する可能性があると考えています。

だからこそ、いまこの時点から備えておかなければなりません。それこそが「危機管理」の本質です。

(深田)

本当にその通りですね。災害で命が助かったとしても、その後の生活で希望を失ってしまえば、それは国家として国民を支えたことにはなりません。それは非常に深刻な問題だと思います。

今日は本当に多くの学びがありました。「トモダチ作戦」の発案者がエルドリッヂさんご本人だったとは驚きました。

今回は元アメリカ海兵隊のロバート・D・エルドリッヂさんに、「トモダチ作戦」誕生の背景や、災害と危機管理に関する貴重なお話を伺いました。本日は誠にありがとうございました。

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