#357 生成AIが子供を壊す?願いを叶えアンチまで味方にする神様の教え さとうみつろう氏
(深田)
皆さん、こんにちは。政経プラットフォームITビジネスアナリストの深田萌絵です。
今回は作家のさとうみつろうさんにお越しいただきました。どうぞよろしくお願いいたします。
(さとう)
1か月ぶりにお邪魔してしまいました。申し訳ありません。
(深田)
本当に、危ういところでしたよ。
<前回のつづき>
(さとう)
現在では、TSMCではなくNVIDIAですね。NVIDIAのGPUが使われているのは、間違いありません。ChatGPTにも当然搭載されていますし、Googleなどの他の大手プラットフォームにも採用されています。
(深田)
多くの企業が利用していますね。
(さとう)
それから、Twitterの「Grok」もそうですよね。
(深田)
はい、そちらにも使われています。
(さとう)
つまり、あらゆるところでNVIDIAのGPUが影響を与えているわけです。
(深田)
現時点では、NVIDIAのGPUが最も優れているといえるでしょう。
(さとう)
NVIDIAのCEOは台湾出身と伺っていますが、以前お話を聞いたところでは、その背景には中国があると。
(深田)
そうですね。中国、台湾、そして「浙江財閥」と呼ばれる勢力が関係しています。
(さとう)
なるほど。では、千年以上の時を経て、現在また新たな形で、いわば「洗脳プログラム」が始動したということになるのですね。AIという新たな道を通じて。
(深田)
その通りです。たとえば、陰謀論の世界ではよく言われるのですが、母親を働かせて子どもを幼稚園に預けるという仕組みの背後には、子どもたちを学校教育を通じて支配したい人々が、幼少期から洗脳しやすくするための意図があると考えられています。つまり、子どもを洗脳するために、まずは母親を子どもから引き離すという構図です。
(さとう)
そうなのですね。それは初めて知りました。
(深田)
さらに、子どもを教育するという陰謀論がある一方で、教育する側の大人、つまり育てる人たちもまた洗脳しなければならないという話もあります。けれど、もしそこにAIを使えば――
(さとう)
一網打尽に、すべてを意図した方向に導くことができるわけですね。気づかないうちに、私たちもそうやって組み込まれているのだと思います。
(深田)
間違いなく、すでに組み込まれてしまっていると思います。
(さとう)
私に「2022年以前の文章を読むことがとても大切だ」と教えてくださった方がいるのですが、たとえば冷蔵庫に「夕飯のコロッケはこの中に入れてあります」と書かれたメモがあったとして、それが2021年のものであれば、それも人類にとって貴重な記録、つまり宝物になるのだと。
フェアレディーZが今、宝物になっているように。
要するに、2022年以前に書かれた文章であれば、メモ書きであろうと、日記であろうと、ブログであろうと、生成AIの影響をまったく受けていない。だからこそ、それらはこの時代までの「黄金期」の記録なのだと。そして、2022年を境に時代は大きく変わってしまったのです。
それが良いことなのか悪いことなのかは、これからの時代の推移を見て判断するしかありません。しかし、「それらはすべて宝物になる」と言われたそのタイミングで、ちょうど出版社の方から「みつろうさんの過去の作品を短編集として出したい」というご提案をいただき、私は即答しました。「もちろん、ぜひお願いします」と。
(深田)
その短編集には、ブログに書かれていたような内容も含まれているのですか?
(さとう)
はい。自分が書いてきたものを、まったく編集を加えず、そのまま出すことにしました。
(深田)
とても楽しみです。出版されるのはいつですか?
(さとう)
実は明日なのです。本当に偶然、ちょうどこのタイミングで。
(深田)
私、すでに予約していますよ。注文済みです。
(さとう)
送りもしましたのに、そのように言っていただけて恐縮です。いつもたくさん読んでくださって、本当に感謝しています。
(深田)
でも、やはり面白いですよね。『神さまとのおしゃべり』を読んで、とても面白い作品だと感じたのですが、それと同時に、やはり「ろくでもないこと」を願っていると、「ろくでもないこと」が叶ってしまうのだな、と思わされました。
(さとう)
私はむしろ、「目の前の現実はすべて観測者の思い通りである」と考えています。ですから、「叶っていないこと」は存在しないと思っているのです。
つまり、どんな状況であっても、目の前にある現実は、その人が「そうであってほしい」と無意識にでも思ったからこそ、そう見えているのであって、「叶っていない現実」などというものは存在しないのだと考えています。
たとえば「ベンツが欲しい」という人がいるからこそ、「欲しがられるベンツ」という現象が成り立つのです。このように、対照的な要素として存在しており、「目の前にある現実」と「自分自身の願い」は、必ず一致しているはずです。
仮に「一致していない」と感じている人がいたとしても、それ自体も一つの願いの現れかもしれません。つまり、「一致していないと感じたい」「思い通りにいかない自分を感じたい」と無意識に願っている場合もあるわけです。
そうであるならば、本当の願いとは別のものを思い続けているとか、潜在的な意識と表面的な願望に齟齬があるなど、何らかのずれが生じていることになります。
(深田)
その感覚、よくわかります。たとえば「彼氏がほしいな」と思っていながらも、「あまり干渉されるのは嫌だな」とか、そういう矛盾した気持ちがあったりします。
(さとう)
まさにその「トータルの思い」で勝っているわけですよね。
(深田)
その通りです。「あまり時間を取られたくない」とか、「仕事の邪魔をされたくない」とか、いろいろ考えているうちに、結局ずっと一人でいる、というような。
(さとう)
結局のところ、「目の前の現実」は常に自分の思い通りであるはずなのです。もしも「目の前を変えたい」と思うのであれば、自分の中でどのような「思い」がぶつかり合っているのかを、丁寧に見極めていくことが必要です。
そして、その中の一つでも不要な思いを手放すだけで、現実は大きく変わる可能性があります。「この思いは今の自分には必要ないな」と気づくことで、足し算や掛け算で複雑化していた思考がシンプルになり、結果として、目の前の現実は自然と自分の思い通りになっているはずなのです。
(深田)
本当にその通りです。よく「パートナーはいらないのですか?」と聞かれるのですが、私は親から「自分自身こそが人生最高のパートナーである」と教えられて育ってきました。そのため、「誰かと付き合うことが、すなわち人生のパートナーになる」という概念を、なかなか自分の中に受け入れられずにいます。
そうした価値観が、もしかすると私自身の足を引っ張っているのかもしれません。目の前に好きな人がいたとして、その人のことは確かに好きだけれども、「この人と人生を共にできるのだろうか」とか、「自分の人生で達成したいことの妨げにならないだろうか」と、つい考えてしまうのです。
(さとう)
なるほど。つまり、「好きな人=生涯のパートナー」という方程式自体が、すでに前提として合わないのかもしれませんね。必ずしも「好きな人」が「生涯のパートナー」である必要はありませんから。
(深田)
その通りです。私にとって、人生最高のパートナーとは、自分自身なのです。
(さとう)
そのような価値観のもとで育ってこられたわけですね。
(深田)
そうですね。その考え方が、自分の中に設定のように組み込まれてしまっているのです。
(さとう)
本来であれば、人は毎日違う誰かを好きになってもいいはずです。しかし、「好きになった人を一生涯のパートナーとしなければならない」という思い込みを抱いている人も、案外多いのではないでしょうか。
(深田)
確かに、そうかもしれませんね。「人生のパートナーとは何なのか」と改めて考えることがあります。自分がやりたいことを成し遂げようとする際、やはり性別の違いも影響するのかもしれませんが、女性が何かに挑戦しようとすると、「そんなに働かなくてもいいのでは」とか、「そこまでしなくていい」といった言葉をかけられることがあるのです。
(さとう)
ただ、それは「言われるはずだ」という思い込みかもしれませんよ。
(深田)
それは、思い込みなのですかね?
(さとう)
きっと、そうだと思いますよ。実際には、やってくれることに対して感謝したり、喜んだりする人のほうが多いと思います。むしろ、世の中にはそのような人が大多数なのではないでしょうか。
(深田)
なるほど、そうかもしれませんね。
(さとう)
ですから、それはやはり「思い込み」だった、ということになるのです。
(深田)
今の会話で、ひとつ思い込みが外れました。
(さとう)
そうした思い込みの積み重ねこそが、目の前の現実を形づくっているのだと思います。
(深田)
そういう考え方が、『神さまとのおしゃべり』にもたくさん書かれていましたよね。
(さとう)
ええ、あの本には、まさにそういったことを綴っています。
(深田)
あの本は、ベストセラーであるだけでなく、ロングセラーにもなっていますよね。
(さとう)
もう刊行から11年になります。今でも毎月のように増刷がかかっていて、本当にありがたいことです。11年目で毎月増刷というのは、あまり聞かない話で、正直、自分でも驚いています。
(深田)
11年間、売れ続けているというのは本当にすごいことですね。
(さとう)
厳密に言うと、一時的に売れ行きが鈍った時期もあったのですが、YouTubeを始めたここ3年ほどは、毎月のように増刷が続いています。
(深田)
読者層は、どのような方が多いのですか?
(さとう)
50代、60代の女性が中心ですね。女性の読者が圧倒的に多いです。
(深田)
どうして女性に支持されているのでしょうね?
(さとう)
それは正直、私にもよく分かりません。あの本はかなり論理的に書いたつもりなので、むしろ男性に読まれるのではないかと思っていたのですが、実際には男性の読者はあまり多くないのです。
(深田)
でも、あの本は話し言葉で書かれていて、とても優しくて親しみやすい内容ですよね。
(さとう)
そうですね。分かりやすさを意識して書いたので、そこが女性の読者の心に響いたのかもしれません。
(深田)
その通りです。私も『神さまとのおしゃべり』を読んでいて、本当に楽しかったです。
でも、結局のところ、人間は「自分がなろうとした人間」にしかなれないのかもしれませんね。
(さとう)
そうですね。私の基本的な考え方としても、「目の前にある現実はすべて叶っているものである」という前提以外に、もはや成立する方程式はないと思っています。
つまり、「叶っていないこと」が存在するはずがないのです。どこを見ても、本来は思い通りであるはずだということです。
(深田)
そして、自分で自分を否定している人は、たとえ「こうなりたい」と口にしていても、
「でも、自分はこういう人間だから無理だよね」といった具合に、必ず自分でそれを打ち消してしまいますよね。
(さとう)
まさにその「トータルの式」がどうなっているか、それが現実を決定づけているのだと思います。
最終的に、肯定と否定、どちらの思考が優位に立っているかで、目の前の現実は決まってくるのでしょう。
(深田)
「トータルの式」ですか。
(さとう)
はい、トータルでどのような思考を持っているかが重要なのです。
『神さまとのおしゃべり』の主人公の話でもそうなのですが、彼は「今日、会社に行かなければならない。もう辞めたい」と神さまに訴えるのです。
すると神さまは「では辞めればいいじゃないか」と答える。
主人公が「辞めたらお金がもらえないじゃないか」と言うと、神さまは「お金がなくてもいいじゃないか」と返す。
さらに主人公が「お金がないと飢え死にしてしまう」と言えば、神さまは「飢え死にしてもいいじゃないか」と続けていく。
「飢え死にしたらどうなるのか」と、どんどん突き詰めていくうちに、神さまからこう言われるのです。
「つまり、今あなたが得ている現実はすべて、あなたの願いが叶った結果なのだ」と。
「お金がある」「飢え死にしていない」「会社に行っている」それらすべてが、自分自身が選び、望んだことだということに気づかされるわけです。
そして主人公は、「はい、私が会社に行きたいと思っていたようです」と認めるのです。
要するに、面倒に見えるかもしれませんが、一つ一つ丁寧に思いを見つめ直していけば、すべては結局、自分の思い通りになっているということなのです。
(深田)
確かに、言われてみればその通りですね。
(さとう)
もし「思い通りじゃないこと」が目の前に一つでもあるのだとすれば、それは「思い通りにならない人生を一度味わってみたい」という願いが、どこか心の片隅にあったということかもしれません。そのような無意識の思いまで含めて考えれば、すべては“トータルの足し算”として現実を形づくっているのだと思います。
たとえば、『神さまとのおしゃべり』の主人公は、幼い頃に母親から「お豆腐を買ってきてね」と頼まれる場面があります。主人公は「はい、お母さん」と答え、5分ほどでお豆腐を買って帰ります。母親はその迅速さを大いに褒めてくれました。
この経験によって、彼の表層意識には「仕事を早く済ませれば褒めてもらえる」という認識が刻まれるようになります。以後、彼の仕事は自然と早くなるのです。
ところがその後、彼は偶然、母親が姉に向かって「この豆腐、ぐちゃぐちゃで使いものにならない」と話しているのを耳にします。
それを聞いた主人公は、「ああ、仕事というのは丁寧にもやらないといけないのだ」と感じるようになります。
このようにして、「スピーディーに、かつ丁寧に」という矛盾する指標が、彼の中に同時に存在するようになるのです。
しかし、「スピーディー、かつ丁寧に」は、一人ではなかなか実現できない話です。そこで現実の中では、どうにかこの矛盾を成立させるための“調整”が行われます。
たとえば、その主人公の勤める会社には「チェックマン」と呼ばれる同僚がいて、どんな細かい点にも目を光らせ、ダメ出しを繰り返す存在です。
主人公は仕事をスピーディーにこなそうとしますが、このチェックマンに何かと引っかかり、「自分はダメなのではないか」「もう会社を辞めたい」と悩むようになります。
しかし実は、この“嫌な人”であるチェックマンを含めたすべての構造が、彼の潜在意識と表層意識が望んでいた“トータルの願い”を叶えているのです。
つまり、「自分はスピーディーに仕事をしたい」という願いと、「仕事は丁寧でなければならない」という別の願いが、現実の中で役割分担され、パッケージとして成立しているのです。
ですから、目の前に現れる「嫌な人」や「好きな人」「出来事」「病気」でさえも、実はすべてがこの“方程式”の中で成立しているのです。
「ゆっくり、かつ早く仕事をする」といった矛盾を一人で解決することは不可能です。だからこそ、自分の外に存在する“他者”の手を借りて、現実が構成されているのです。
(深田)
なるほど、そうなのですね。「嫌な人」もまた必要だったということですね。
(さとう)
その通りです。私が思うに、「嫌な人」や「アンチ」と呼ばれる存在は、結局、自分が表には出したくないけれども、本当はやらなければならないことを代わりに引き受けてくれている人なのだと思います。
たとえば、私はYouTubeのコメント欄で「アンチを一秒で味方につける方法」ということをよくやっています。
もし、コメント欄に「みつろうはいつも自分だけ話して、深田萌絵さんに話させていない」といった批判があったとします。
それを読んで、「なるほど、そう言われたら確かにその通りかもしれないな」と思った瞬間、その“アンチの声”は私にとってアドバイスに変わるのです。
ですから、私はいつも「自分が本当にやりたいことは、アンチを含めた全体で実現されている」と信じています。
(深田)
そうですよね。私も、自分とは意見の異なる方から反対意見を一気にぶつけられることがよくあります。
でも最近は、それも非常に大きな学びだと受け止めるようになりました。むしろ、「これだけのことを無料で教えてもらえるなんて、ラッキーだな」と思うことさえあります。
(さとう)
政経プラットフォームをご覧の皆さんに向けて、わかりやすくご説明すると、僕が阪神ファンで、深田さんが巨人ファンだとします。
阪神ファンの立場から見ると、巨人ファンというのはまさに「アンチ」のような存在に映るわけです。
「なんであいつらは、渡辺オーナーの巨額の資金で、あんなにたくさんドラフト選手を取ってくるのか」
「なんで読売新聞を使って、ジャイアンツばかりを盛り上げようとするのか」
「なんで長嶋さんはああだ、こうだ」と、とにかく理解できないことだらけに感じるのです。
つまり、阪神ファンの視点から見ると、巨人ファンの行動や価値観は「意味がわからない」としか思えない。
でも逆に言えば、それは「自分にとってわからないこと」をたくさん知っている人たちだ、ということなのです。
そして、それこそが本質で、実は「アンチ」とは、最も自分の知らないことを知っている存在なのだと思うのです。
もちろん、その感情的な部分を取り除いて考える必要があります。
無理に理解しようとしなくても構いません。ただ、「あの人たちは、自分が理解できていないものを体現している人たちなのだ」と捉えると、視点が変わってきます。
たとえば、「お金をたくさん使って有力選手を補強する長嶋監督の方針」こうしたことをアンチの視点で見れば、「嫌い」という感情が先に来てしまいがちです。
ですが、その感情を少し脇に置けば、「そもそも自分が理解していないものを相手が持っている」という事実が見えてくるのです。
「なぜあの球団は8チャンネルで宣伝しているのか?」
「なぜ長嶋オーナーなのか?」
そのように、「わからない」が重なっていくのですが、
実はアンチは、その「わからない」をすべて理解している人なのです。
(深田)
本当にそうですね。はい。
(さとう)
本来、学びがあるのはここしかないのです。僕の味方たちは、「みつろう、よくやった!阪神最高!縦縞のユニフォーム、かっこいいよね!」と声をかけてくれます。
もちろん、そうした味方の声は感情を心地よくしてくれるし、励みにもなりますが、学びという点では何も得られません。なぜなら、それはすでに自分がわかっていることだからです。
「縦縞のユニフォームはかっこいい」とか、「阪神は関西弁だからいい」といったことは、最初から理解している内容です。
しかし、たとえば東京弁の良さや、巨人の資金の使い方については、自分の中に理解がありません。
「わからないこと」、そこにこそ、本当の学びがあるわけです。
つまり、学びとは「すでにわかっていること」ではなく、「まだわかっていないこと」にしか存在しないのです。
(深田)
本当にそうですね。私が人生を通じて強く感じるのは、「強い敵」というのは、ものすごい学びを与えてくれるということです。
(さとう)
深田さんがおっしゃる「敵の強さ」というのは、私たちのような一般市民の想像を遥かに超えています。
浙江財閥だとか、中国共産党といった相手から学べるというのは、もう深田萌絵さんにしかできないことだと思います。
(深田)
やはり、「こんな手口を使ってくるのか」と思う場面が何度もあります。
たとえば、相手を訴訟で追い詰めようとしても、相手は日本の法律を巧妙にすり抜けてきます。
そこで次に外国の法律を調べてみても、そこでもまた抜け道を使っていて、
さらに国際協定の盲点まで利用して、すべてギリギリで法に抵触しない範囲で巧妙に動いているのです。
本当に「この人たちは天才だ」と思ってしまうほどで、感動すら覚えます。
(さとう)
それは確かに、非常に深い学びですね。
(深田)
学びとしては大きいです。政治活動の分野でも同様で、保守派の人たちはよく「リベラルの主張ばかりが通っていて、ずるい」と不満を口にします。
でも実際には、リベラル側は非常に合理的な戦略を取っているのです。
メディアを使って情報を発信し、記者会見を開いて世論を喚起し、本を出版してさらに認知を広げ、
そこに弁護士を組み合わせて法案を支える仕組みを構築する。
さらに、その背後には政治家が控えており、資金も確保されていて、最終的に法律や制度がきちんと成立するようになっている。
この一連の流れが、戦略的にしっかりと設計されているのです。
一方で、保守派はそれを「ずるい」と批判するだけで、自らは同じような手段を取ろうとはしないのが現実です。
(さとう)
なるほど。「ずるい」と言うのであれば、同じことをやってみればいいのに、と思いますよね。
(深田)
その通りです。「あれはずるい」と言っているすべての行動を、自分たちがそっくりそのまま実行すれば、実は十分に勝つチャンスはあるはずです。
(さとう)
拙著『悪魔とのおしゃべり』には、今お話しした内容が書かれています。そしてその本をもとに、全国をまわって「悪魔のワークショップ」というイベントも開催しました。
その中でまず行うのが、参加者に「自分が許せない人の嫌いな点」を10項目、書き出してもらうということです。たとえば「遅刻するのが許せない」とか、「派手な服装が嫌い」とか、そういった内容です。
そして次に、それぞれの項目を「僕は遅刻したい」「僕は派手な洋服を着たい」「僕はズルをしたい」と、自分の願望として言葉にしていきます。
すると不思議なことに、ほとんどの人が途中で涙を流し始めるのです。
というのも、人間は成長の過程で「好き」「嫌い」という感情を社会的・文化的に学んでいくものですが、もともと本能的にそうした判断をしているわけではありません。たとえば「なぜ赤が好きで、青が嫌いなのか」と問われても、それは理屈では説明できないはずです。
たとえば、今私が派手な服を着ていますが、もし幼い頃に母親から「そんな派手な服は着てはいけません」と言われていたとすれば、私はその欲望を抑圧することになります。
本当は着てみたいと思っていたのに、「着てはいけないものだ」と自分に言い聞かせてしまうのです。
そうして育った私は、ある日、街中で派手な服を堂々と着こなしている人を目にした時、心の中にルサンチマン、つまり抑圧された欲望に対するねじれた感情が芽生えます。
「あのような歳で、派手な服を着て信じられない」と否定するのは、実は自分が本当はやってみたかったことを、目の前の他人がやっているからなのです。
ですから、あなたが嫌いな相手というのは、ほとんどの場合、自分が「本当はやりたかったのに、できなかったこと」を目の前で実行している人なのです。
つまりその人は、あなたが幼い頃に心の中で思い描いていた“スーパースター”のような存在でもあるのです。
『悪魔とのおしゃべり』では、この構造を逆手に取ります。
先ほど挙げた「許せないこと」「嫌いなこと」について、「それは本当は自分がやりたかったことなのだ」と、ただ口に出して言うのです。
「僕は遅刻したかったのだ」
「僕はズルをしたかったのだ」
「僕はギリギリで勝つやり方じゃなくて、圧勝したかったのだ」
こうした言葉を発するだけで、本音があふれ出し、涙がこみ上げてきます。
人は社会の道徳観や教育によって、「やってはいけない」と抑え込まれてきたものが必ずあります。
しかし、その抑圧こそが、私たちの行動に歪みやバイアスを与えているのです。
ですから、「本当はそれをやりたかった」と素直に認めることは、とても大切なのです。
とはいえ、いざそれを口に出すとなると、「でも、そんなことをしている人は嫌いだ」とか、「自分がそれをやるなんて信じられない」と、抵抗を感じるかもしれません。
しかし、ここで重要なのは「実際にやれ」と言っているわけではない、ということです。
ただ、まずは言葉として口に出すだけでいいのです。
「遅刻する人はすごい。本当は私も遅刻してみたかったのだ」
「ぶりっ子が嫌い? でも本当は私、ぶりっ子してみたかったのだ」
「甘えるのが嫌い? でも本当は私、誰かに甘えてみたかったのだ」
自分が嫌いだと感じる人の“嫌いな部分”にこそ、自分が本当にやりたかったことが隠れている。
それを言葉にすることで、初めて「ああ、本当にやりたかったのだな」と気づくことができるのです。
(深田)
本当にそうだなと、私も思います。
私自身、20代の頃は女性からの嫌がらせを受けることが少なからずありました。
(さとう)
それは、見た目がよかったからじゃないですか。
(深田)
「男に甘えている」といったことを言われることが多くて…。
でも、自分としては一生懸命に努力していたつもりでした。
それなのに成果が出ると、「それは自分の実力じゃなく、他の誰かのおかげだ」と言われる。
その言葉がすごく悔しくて、頑張り続けてしまいました。
20代の頃は、正直、男性にご馳走になることも多かったのですが、30代に入ってからは一切変えました。
男性と食事に行っても、必ず自分の分は自分で支払うようにしてきました。
(さとう)
「誰の世話にもなっていないぞ」と伝えたいわけですね。
(深田)
その通りです。「私は甘えてなんかいない」という気持ちが強くて。
「おじさんに可愛がられてここまできたのだろう」と言われるのが本当に嫌で、
むしろ「私のほうがおじさんを可愛がっている」と言いたいくらいの気持ちでいたのです。
(さとう)
おじさんを可愛がりながら、中国共産党とも戦う、と。
(深田)
そう。ちょっとダメなおじさんたちを可愛がって、一緒に戦っているという感じですね。
(さとう)
その姿勢にも、やはりどこか心にバイアスがかかっているのだと思います。
「本当は自分もおじさんに可愛がられたい」という願望があっても、それはまったく悪いことではありません。
(深田)
本当にそうですよね。冷静に振り返れば、20代の私はまだまだ未熟で、実際に多くの人に可愛がられていたのだと思います。
でも当時は、それに気づく余裕がなかったし、必要以上に意地を張っていた部分もありました。
そして今も、「本当は誰かに甘えたい」という思いが心のどこかにあるのですが、
「でももうこの年齢だからどうなのかな」とか、いろいろと考えてしまって、素直になれない自分がいるのです。
やはり、そうした葛藤は今も心の中に残っているように感じます。